見出し画像

【追悼】山藤章二 朝日新聞「虱(しらみ)の会」事件の後始末

山藤章二さんが亡くなってしまった。

風刺とブラックユーモアを利かせた画風で、45年続いた「週刊朝日」の連載「ブラック・アングル」でも知られたイラストレーターの山藤章二(やまふじ・しょうじ)さんが30日、老衰のため死去した。87歳だった。
(朝日新聞デジタル 9/30)


かつて、週刊朝日最終ページ「ブラック・アングル」と、サンデー毎日最終ページ「大日本中流小市民」を読むのが楽しみだった。

週刊朝日を後ろから開かせる男が山藤さんなら、サンデー毎日を後ろから開かせたのが高橋春男さんだった。

高橋さんが今年1月に亡くなった後、山藤さんも亡くなってしまった。

出版の一つの時代の終わりを象徴するようで、私のような老人には感慨があります。


漫画家、イラストレーターとしての山藤さんの評価は専門家に任せるとして、私は「虱の会」事件について触れたい。

山藤さんといえば、忘れられないのがこの事件だ。

訃報の中で、この事件に触れない記事は、おかしいと思う。


「虱の会」事件について、私は「新聞社10大スキャンダル」という記事を書いた時、その一つとして以下のように書いた。


朝日 「週刊朝日」シラミ問題で野村秋介が抗議自殺(1993)

1992年の衆院選で、大物右翼の野村秋介、芸人の横山やすしらは「闘う国民連合・風の会」として立候補したが、朝日新聞社発行の「週刊朝日」でイラストレーターの山藤章二がこれを「虱(しらみ)の会」と揶揄した。それに怒った野村秋介は1993年10月20日、朝日新聞東京本社の社長室で、中江利忠社長の前で拳銃自殺した。


この事件を同時代に眺めていて、一番引っかかったのは、

「朝日新聞は、山藤章二さんを守りすぎではないか」

ということだ。

抗議してきた右翼に対し、朝日新聞は山藤氏を後ろに隠すようにして、編集部が対応した。

いや、版元が作家を守るのはいいのだが、作家本人、山藤さんの思いが、ほとんどオモテに出てこなかった。

それは、どうなのかな、と思ったのだ。


同時期には、「ミンボーの女」をめぐって伊丹十三監督がヤクザに襲撃された事件(1992年)や、筒井康隆が「てんかん」表現をめぐって断筆宣言をする(1993年)といった、表現の自由をめぐる重要事件が相次いだ。

伊丹氏や筒井氏は、少なくとも表現の自由のために戦う姿勢を示した。

しかし、朝日新聞と山藤氏は、最初から右翼に土下座状態だったように見えた。


その背景には、朝日新聞社員が殺害された赤報隊事件(1987年)があったと思う。

野村秋介氏が赤報隊事件に関わっているかも、という話は、ずっとあった。

朝日新聞は、山藤氏が右翼に襲われる最悪の事態を恐れて、山藤氏を守ることを第一に動いたのではないか、と当時考えた。


野村秋介氏は、朝日新聞社長室に抗議に行き、当時の中江利忠社長や、週刊朝日の穴吹史士編集長の前で、拳銃自殺した。

拳銃が取り出された時、中江社長は自分が殺される可能性を考えただろう。

だが、結局、山藤氏の風刺漫画をめぐって、朝日新聞社長室で何が起こったのか、いまだに全貌は不明である。

かつて「噂の真相」に、野村氏の自死の直前に、中江社長との「密約」のごときものがあった、という記事が載ったのを記憶するが、詳細は忘れてしまった。


当時の週刊朝日の穴吹編集長が亡くなり、山藤氏が亡くなり(山藤氏は社長室にいなかったが)、もうその場の真相を知る者で残っているのは、中江利忠元社長だけではなかろうか。

以前も書いたことがあるが、中江氏も94歳(10月4日で95歳)なのだから、朝日新聞記者なり、社外のジャーナリストなりが、今のうちに「虱の会」事件の真相を取材しておいてほしい。(私は、社長室での録音が残っていてもおかしくないと思う)


とはいえ、いずれにせよこの事件で、山藤氏は被害者である。

山藤氏の風刺が、仮に問題であったとしても、謝罪して撤回すれば済んだ話だったはずだ。

それがこじれたのは、やはり日頃の朝日新聞の左傾報道に右翼が怒っていた(当時はまだ「従軍慰安婦」問題をしつこくやっていた)からで、そういう意味でも山藤氏は被害者だった。


この事件以降、山藤氏の仕事が、精彩を欠いてしまったのは残念だった。

表現の自由に関して、一つの曲がり角となった事件だった。私自身、「痛み」とともに思い出す事件である。


山藤さんのご冥福を祈りたい。


<参考>


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?