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マスコミ「退職勧奨」の現場

少し前にも触れましたが、元産経記者の三枝玄太郎さんが出した『メディアはなぜ左傾化するのか』という本が売れている。

この本は、三枝さんが産経で「退職勧奨」されたときの描写から始まる。いわゆるリストラです。

その部分は、Amazon販売ページの「サンプル」でも読むことができます。


わたしは身につまされて読みました。

わたしも新聞社で同じような目にあいましたから。

そして、自分の「小説 平成の亡霊」も、同じように退職勧奨の描写から始めました。

しかし、三枝さんの書き方のほうが数倍いい。まいりました。


新聞記者やマスコミだけでなく、サラリーマンで似たような経験をした人は多いでしょう。

これから経験する人も多いはず。

参考になると思うので、以下に引用してみます。


三枝玄太郎『メディアはなぜ左傾化するのか』(新潮社)より↓


ノックしてドアを開けると、そこはうす暗く、狭い部屋だった。鳥居洋介・産経デジタル社長が座っていた。その脇を固めるように二人の男性が座っていた記憶があるが、その二人の表情は、のっぺら坊のように全く記憶がない。

鳥居さんは大阪本社が長い人で、夕刊フジに長く籍を置いていた。大阪編集局長を経て、2015年から産経デジタルの社長を務める産経新聞取締役だ。口ひげとあごひげをたくわえた温厚な性格で知られていた。

「君は……まだ若いんだから、やり直せる。再出発を図るには早すぎるくらいだ」というような趣旨のことを言ったと思う。

(中略)

「とにかく私は辞める気はありませんから」

と答えて部屋を出た。

部屋を出ると、急に尿意を催した。知らずに緊張していたのだろう。力が抜けた。トイレを終えて廊下に出ると、向こうから鳥居さんが歩いてくるのが見えた。トイレ休憩をするつもりのようだ。こちらに向かってくる。俯いていて表情が見えなかった。黙って右に折れて、気づかれる前に鳥居さんの視界から消えた。

「ハァ~」

背後で大きな溜息がした。鳥居さんの溜息だった。急に考えが変わった。会社を辞めよう、と思った。


(『メディアはなぜ左傾化するのか』からの引用終わり)


退職勧奨というのは、だいたいこういう「うす暗く、狭い部屋」に呼ばれて行われるものらしい。

以下に、恥ずかしいけど、私の「平成の亡霊」の冒頭を引用します。やはり「狭い部屋」が舞台です。



「小説 平成の亡霊」(note)より↓


引導を渡された、というやつだ。

ヤナは、会議室で本部長から言い渡された言葉を、反芻しつつ思った。

「もうこれ以上、いい条件で辞める機会は、君には来ない。わかっているだろう?」

分厚い眼鏡ごしにそう言ったあと、本部長は下を向いたまま黙った。(俺だってつらいんだ)とでも察してほしいのだろうか。

早期退職勧奨制度。それが始まったことは聞いていた。

言い方は新しくなったが、要は肩たたきだ。


日々新聞社出版局が、日々新聞出版として独立して3年。

独立といえば聞こえがいいが、新聞社並みの給料を払えないので、人件費を下げるために子会社化されたのだ。

企業年金がなくなり、全国の保養所が閉鎖され、かつての特典は次々と剥ぎ取られていった。それでも新聞社の給料は、まだある程度のところで高止まっている。組合が強いのと、優秀な人材を最低限確保するためだ。

その一方で、事業の整理と中高年社員のリストラが進んでいた。

出版の子会社化もその一環だ。オフィスも、家賃の高い大手町の本社ビルから、新橋の雑居ビルに移っている。

本社の豪華で明るい雰囲気とは違う、天井の低い、細い通路を編集部に戻りながら、ヤナは「今日は居酒屋で飲みつぶれることになるだろう」と思った。


(「小説 平成の亡霊」からの引用終わり)


新聞記者をやめた日


三枝さんの描写を読んで、思い出したのが、内藤国夫の『愛すればこそ 新聞記者をやめた日』(文藝春秋、1981年)でした。

内藤国夫は、毎日新聞の名記者でしたが、1980年、池田大作創価学会名誉会長のスキャンダル記事を『現代』に書いたことから、社の幹部の逆鱗に触れて、退社に追い込まれます。

当時、毎日新聞は、創価学会の支援を受けて会社を再建中でした。


『愛すればこそ 新聞記者をやめた日』は、退職の経緯を、みずからドキュメンタリーとしてまとめた本です。


内藤の場合、いまで言う「退職勧奨」ではありませんが、退職に追い込まれたのは同じ。だから、三枝さんの本で思い出しました。

その冒頭も、ここでちょっと引用しておきましょう。



『愛すればこそ 新聞記者をやめた日』より↓


一九八〇年の六月七日、土曜日の夕刻、毎日新聞社の取締役出版局長と一緒に、那須ゴルフ倶楽部でワンラウンドを終え、中野好夫氏の持つ別荘へと引き揚げたときから、騒ぎが始まった。ハーフで一足先に別荘に戻っていた中野氏が私に告げた。

「キミの自宅から電話があった。急用があるらしい」

一線の取材現場を退き、もはや事件などでの緊急呼び出しを受ける身ではない。なにごとだろうと自宅に電話したら「会社であなたを捜している。ただならない様子でした。すぐ会社に電話を」と、女房の返事。(中略)

ともかく会社に電話を入れた。

「いま、どこにいるか。これからすぐ、社にあがってきてほしい。編集局長がキミに話したいことがあるんだ」と特報部長。

(中略)

「いったい、なにがあったのか。どうすればよいだろう」とかつての編集局長、現出版局長に相談をもちかけた。「キミの創価学会レポートが問題になっているのかもしれないな・・

(『愛すればこそ 新聞記者をやめた日』からの引用終わり)


内藤国夫は、毎日新聞退社後もジャーナリストとして活躍しましたが、1999年、食道がんで62歳で亡くなっています。


わたしは、子供のときから内藤国夫の記事のファンでした。

とくに、1978年に毎日新聞に連載された「同時進行ドキュメント『毎日新聞』」が面白かった。

これは、毎日新聞が事実上倒産して、再建中だった当時の社内のようすを、赤裸々に記録したドキュメンタリーでした。

新聞記者は、自社の経営難まで記事にするんだな、と感心したものです。


ああいう「ジャーナリスト魂」みたいなのが、「大マスコミ」から消えて久しいですね。

創価学会の悪口を書いたらクビ、という、この内藤国夫の件が、分水嶺だったかもしれません。

でも、みずからの退職やリストラも記事にする。それがジャーナリストです。


最近は、インターネットの普及もあって、マスコミ企業をやめたあとも活躍するジャーナリストは多い。

自分を棚に上げて言えば、いい記者、気骨ある記者ほど、いまのマスコミ企業に収まらないのではないかーーということは以前も書きました。

三枝さん含め、活躍に期待しています。



<参考>



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