#13 音楽史⑧ フランス革命とドイツ文化の"救世主"登場
ポピュラーまで見据えて西洋音楽史を描きなおすシリーズの続きです。
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前回の復習
フランス革命勃発
とうとう世界史上の一大トピック、フランス革命が起こります。
フランスのブルボン王政はルイ14世~16世の間、次第に財政難になっていき、台頭してきた商工業者(ブルジョワジー)たちが特権階級への不満を募らせていました。そしてついに1789年、反乱が始まります。1793年、ルイ16世は処刑され、議会で憲法が制定されたりクーデターが起こったり、と、混乱が続き、つづいてナポレオンが登場し、ナポレオンが皇帝に即位。ナポレオン支配~ナポレオン戦争期へと突入していきます。
このフランス革命の際に、パリに編成されたフランス軍楽隊からヨーロッパでの近代吹奏楽の発達がスタートします。ブルボン朝に仕えてきた多くの宮廷楽士は一時失業するものの、共和国政府が楽士を集めて国民軍軍楽隊を組織し、革命の精神を伝えるため野外で大音量を出せる大編成を採用します。このときの指揮がフランソワ=ジョセフ・ゴセック。
その後軍楽隊は解散しますが、そのまま音楽学校が組織され、古い唱歌学校と合併し、1795年パリ音楽院となります。学長となったゴセックの作品が広く残っています。
また、この革命期に、多数の革命賛歌や軍歌も作られ、のちのフランス国歌となるラ・マルセイエーズもこのとき誕生しました。
1800年代を通じてナポレオンは大陸支配を広げていき、ヨーロッパでの影響力を増します。神聖ローマ帝国は名実ともに消滅。ハプスブルク家の支配圏はオーストリアとハンガリーのみになります。
1810年代になると反ナポレオン運動が展開し、ナポレオンは敗北。
1815年 各国の会議の結果、「ウィーン体制」と呼ばれる「革命前の状態に戻そう」主義が決定。
このように、一瞬で社会が民主化したわけでは無く、一筋縄ではいかない動乱が続いていたため、貴族社会は断絶したわけではなく、むしろ「継続」したとの見方が近年主流になってきているそうです。こうしたフランス貴族文化は、その後パリのサロンコンサートとして音楽家にとって重要な活動場所になっていきます。
ドイツ「美学」による劣勢挽回運動
さて、ここまでの記事で見てきたように、18世紀まで、ドイツ地域は長らく後進国でした。
軍事的な面では、イギリスやスペインは海洋進出により植民地侵略で富を築き、フランスは強大な統一国家として君臨。イタリア地域は小国の集合でしたが、地中海の恩恵により商業的に発達。しかし、ドイツ地域は群雄割拠のまま取り残されていました。
文化的な面では、イギリスはシェイクスピア以来の文学の伝統。イタリアは、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、といったルネサンス文化の伝統や、オペラの発祥地という強大な音楽文化。フランスも絶対王政下の貴族の社交文化と、デカルト・パスカルらの哲学者、モンテスキューの啓蒙思想などが時代をリードしていました。それに対し、ドイツの文化的状況は立ち遅れている状況でした。
そうして18世紀ドイツは、軍事的にも文化的にも「追いつけ、追いこせ」の精神が芽生え始めました。諸侯たちが軍事力によって地位挽回に努めたとすれば、インテリたちは文化的な劣等地位を挽回すべく、「ドイツ精神の作興」に立ち上がります。
詩人としてはゲーテやシラーが登場し、哲学ではカントやヘーゲル、ショーペンハウアーらが運動を牽引し、ドイツ文化圏に「美学」という独特の学問が誕生します。その根底には「諸外国よりも自分たちを優位に導く」という方向性があったため、ドイツ美学というものは、ただ単に美意識を論じるのではなく、ドイツ人に備わる「崇高さ」という概念を追求するものとして、ドイツ人の重要なアイデンティティになっていきます。
結局、美術や文学の分野ではフランスの優位を崩せずにいましたが、唯一、音楽という分野にこの突破口が見出されることになります・・・。
1人の異端児の登場
ここに、ヘーゲルと同い年の音楽家
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)
が登場します。
※ベートーヴェンは通常、ハイドン、モーツァルト、とともに「古典派」の3人として位置づけられますが、活躍時期的にはハイドン・モーツァルトの2人よりも少しあとの「19世紀の人間」で、19世紀の音楽“ロマン派”への架け橋ともされています。
ベートーヴェンは19世紀に突入して以降、貴族のためではなく、高らかに自己を歌い上げる音楽を作り始めます。そして「自分が一番偉い」という考え方を広げていきます。
「作品は他人の娯楽のために書くのではなく、芸術的な表現である」(⇒BGMや商業音楽の否定)
「譜面は一音たりとも直して弾いてはならない」(⇒作曲者優位、演奏者低位の思想)
「絶えず前進することを前提とし、既存と異なった切り口を常に模索せねばならない。」(⇒ヘーゲル哲学の弁証法的な発想)
このような、ベートーヴェンが提唱したそれまでの常識に反する異例の発想は、「美」「崇高」を追求する哲学・美学と結びついて、後世のドイツ人らに大きな影響を及ぼしました。こういった思想は、今日まで続くクラシックの風潮の源流になります。
ドイツ哲学や美学のもとで誕生した「美」と「崇高」というキーワードが、ベートーヴェンという"救世主"のおかげで、音楽の分野で体現できることとなり、文化的劣勢だったドイツ民族はここで「音楽民族」としてのアイデンティティを獲得します。
このあと登場する多くのドイツ系音楽家が「ベートーベン信者」となり、音楽批評を利用して「数々の巨匠によるドイツ音楽史」を確立していく様子を今後見ていくことになります。(音楽室に飾られる肖像画や、音楽の教科書に載る偉人が、ドイツ人ばかりである理由がわかってきます。)
この音楽思想は、19世紀もまだまだ続くイタリアのオペラ(=娯楽)や、フランスの社交音楽(=アイドル的消費)、軍楽・鼓笛隊のような「実用音楽」に対して、ドイツ側から対抗するためのものだ、という視点が、ポピュラー音楽史までを見据えたこのシリーズでは、非常に重要になってきます。
現在のクラシック音楽が「クラシック音楽」たる原点が、このベートーヴェンの思想にあるのです。
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