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『DD』


『DD』


客室のドアノブの横にあるスイッチ式のDDの赤いランプが点灯していた。
DDとは「Do Not Disturb」の略であり、「スタッフは部屋に伺ってはいけない」という宿泊客のサインである。つまり、「部屋に入ってくるな」「邪魔をしないでくれ」などという意思表示のために客がこのDDランプのスイッチをオンにしておくのだ。しかし、フロアにいる私のPHSに社員から電話があり、その部屋の客はチェックアウト済なので開けておいてほしいと指示された。ちなみに、DDランプを点灯させたままで帰っていく客は少なくない。



ドアの前に立ち、チャイムを鳴らしてドアをノックして部屋の中に声をかける。その動作を三度繰り返した。部屋の中から反応がない。マスターキーでゆっくりとドアを開けながら、失礼します、と言った。そうしたところ、部屋の電気が点いていた。
客が電気を点けっぱなしにしてチェックアウトしたのだろう。そんなことはよくあることだった。
他にもテレビの点けっぱなし、バスタブの湯や洗面台の水の出しっぱなしなどもしばしば見ている。



だから、私は躊躇せずに部屋に入ると、目の前のキングサイズベッドの上には白くて細い二本の足を投げ出して、うつ伏せでスマホを見ている裸の女がいた。二十歳くらいの眉のきれいな美人な女である。私は青ざめた。命運が尽きた、と思った。すぐに、失礼しました、と言って頭を下げたが、ふたたび女を見たときに、女は体を少し起こしたために胸がすっかり見えてしまった。しかし、女はけろりとした顔をして、体勢を変えずに私の顔を上目遣いで見ている。女の目は奇怪な光に満ちていた。いかにも性の匂いがする蠱惑的な女だった。女は故意に自分の裸体を私に見せて、私の反応をうかがっているようにも感じられた。周章狼狽した私は、声変わり直後の男子中学生のように顔を赤らめて部屋を出た。
そして、ドアの隙間から声帯を震わせて、
「大変申し訳ございません。お客様の出発の確認にうかがいました!」
「はぁい。すみません。今から着替えて出まーす」
「かしこまりました。では、失礼します」
「あっ、おにいさーん」
「はい。何でしょうか?」
「あと十分くらい待ってぇ」
「かしこまりました」
「食べかけのプリンが食べたい」
「はい。ゆっくりでかまいませんので…」
「わかったぁ。ありがとー」
と言う女は甘ったるい声を出した。


全身から嫌な汗が噴出していた。脇や背中がびしょびしょになり、額からぽたぽたと玉の汗が垂れ、ドアノブに添えている手も不潔な汗にまみれている。
私は挙動不審になりそうなのを必死にこらえて、もう一度、女に丁寧に謝りながら、ゆっくりとドアを閉めようとしたときに女のことを瞥見すると、女は最後まで体勢を変えずに胸を見せたまま泰然としていて、終始、私に対する柔和な笑みを崩さないが、
「変態。その不細工な面でわたしのことを見ないでちょうだい。ケダモノより醜いあんたの視線がものすごく不愉快。というか、DDランプにしてるっていうのになぜてめーはいけしゃあしゃあとドアを開けて部屋に入ってきたの?ふつう、気配かなんかでわかるでしょう。無能な男ね。きっと、無教養な家庭で育った生ごみだから一般常識が理解できないんだわ。わたしのような非の打ち所がない美女を一度も見たことがないんでしょう。田舎者の貧民だから、土間みたいなカビ臭い部屋で茶漬けをかきこむ生活だったのね。ばかばかしい。血反吐が出そうだわ。というか、ハイブランドファッションをさらりと着こなした長身イケメンの男だけがわたしと釣り合うのであって、キサマのような豚男がわたしに近づいてくること自体が論外。だから、滂沱の涙を流しながらわたしが使ったバスタブの残り湯をペットボトルに入れて、御神水ですとか言ってぼろい中古車に乗って地方で売りさばいてきなさい、雑魚めっ!」
などと腹の中で罵られているかもしれないので、私はふたたび平身低頭で謝った。そして、塩を浴びたナメクジのような緩慢な動きで廊下を歩きながら千々に乱れた心を落ち着かせたあと、別の階にある事務所にPHSで連絡した。進藤という男性社員が電話に出たので、部屋の状況を報告すると、
「成田さん。それはすみませんでした。ゲストのお連れ様だけが残っていたんですね。でも、そのお部屋はフロントではチェックアウト済になっていますし、成田さんが部屋に入るときにチャイムを鳴らして、ドアのノックと声がけはしたんですよね?そうであれば大丈夫です。こちらは規則どおりのきちんとした対応をしていますので。ちなみにそのお連れ様からクレーム等は言われなかったですよね?」
「ええ、大丈夫でした。十分後くらいに出るそうです…」
「その部屋、午後から予約が入りそうな感じなので清掃を入れてください」
「はい。わかりました。すぐに…」
そう言った私はPHSを切り、大きな溜め息をついた。安堵と疲弊と憂鬱が混合した溜め息である。


進藤は三十後半の男であるが、亀の子たわしみたいな頭で、快活とはかけ離れた無気力な感じの目が死んでいる大柄な男だった。進藤はこのホテルで十五年くらい働いているのでそれなりのポジションになっているのだが、どういうわけか、仕事に対する姿勢があまり真摯ではないのである。適材適所とはいえない客室清掃スタッフの人員配置、アメニティや飲料類の発注ミスと在庫管理の不十分などが日常茶飯事に頻出するので、私のような客室管理のハウスキーピングのスタッフやベッドメイキングの清掃スタッフたちに多大な迷惑をかけていた。そのせいで現場が混乱し、皆が右往左往して苛立っている。
正直に言うと、こんな無能な男には一刻も早く辞めてもらいたいと現場の誰もが思っているが、進藤の上司であるマネージャーの五十代の男が進藤のことを何かと庇護し、そのマネージャーが客室部門のトップなので、私たちは彼らに従うしかなかった。


くだんの裸の女のようにチェックアウト済の部屋に残っている客は大概が女である。男が先にホテルを出て、時間差で女がホテルを出るパターンなのだ。あるときは関西弁の若い女が下着姿で出てきたこともあるし、今にも死にそうなヨロヨロのお婆さんが出てきたこともあった。また、部屋に入ると、バスルームでシャワーを浴びながら小泉今日子の「なんてったってアイドル」を大声で歌っている女もいたし、トイレの便器できばっている最中の女もいた。
だから、ある程度はこういう局面に慣れており、その都度、臨機応変に対応しているつもりではいるのだが、それでもいざこういうことに不意に出くわすと狼狽するだけではなく、心が摩耗した。今のところ、客から苦情や文句を言われたことはないが、部屋に残っている客と対面することは苦痛であり、殊更さっきのような無防備な若い女の場合には、こちらがまるで犯罪まがいの行為をしてしまっているような気まずさが生じて、暗鬱な心持ちになる。



廊下を歩いていると進藤から電話がかかってきた。
「あ、成田さん。さっきの部屋について、一点だけ確認したいんですけど…」
「はい。なんでしょうか?」
「部屋に残っていた女性はどれくらい裸だったんですか?」
「はい?」
「あっ、だから、その女性は下着をつけていたのか。あるいは、シーツやバスタオルなどで部分的に体を隠されていた状態だったのか…」
「いや、だから、全部ですよ。全部。つまり、素っ裸でした」
「ああ、なるほど。そうですか…あー、そうかぁ…なるほど、そうですか。へぇ」
「やっぱり、まずかったですかね?」
「あ、いや、大丈夫です。一応、大丈夫なんですけど、状況確認といいますか、なんというか、えーと、先に出られたゲストの男性から連絡がきまして」
「え?もしかして激怒してました?」
「それがですね。全然怒ってはいなくて。というか、その女性だけ延泊するそうです。だから、その部屋、新たに清掃に入る必要はありませんので」
と言うと、進藤は急に声をひそめて、
「…その部屋に泊まっていたゲストの男性はうちの常連客でして。定期的に一週間くらい連泊していくのですが、そのたびにお連れの女性が違うんですよ。大学教授らしいんですが、なにぶん異常に羽振りがよくて。まあ、とにかく、不思議な人物です」



さっきの美人な女の裸体が目の前にちらついて仕方なかった。私は頭に絡みついて離れなくなった女の裸体を振り払おうと廊下を小走りした。裸体を見ておいて、こんなことを言うのは申し訳ないが、そもそも、私はああいうタイプの女性は好みじゃない。美人だとは思うが、それ以上の魅力は感じられない。多分、彼女は自撮り写真ばかりをインスタに投稿しているような自分大好き女であり、インスタの投稿欄は自分の顔と体で埋め尽くされているのだろう。空虚だねえ。他にやることはないのかい。それは何歳まで続ける気なの?老いてもやるの?そんな偏見を抱きつつ、そのように思うのは私がそういう女性に相手にされないからであり、つまりこれは私の恥辱と絶望と自虐からくる愚劣な考えであるし、私の心根の貧しさが露呈した難くせなのである。
しかし、本音を言えば、本当に私はああいうタイプの女性は好みではなく、どちらかと言うと、チェーン店のカフェで働いていて、店内の階段の中途でアイスカフェラテとショコラケーキをトレイごとひっくり返した粗忽な客の後始末をひとりで一生懸命やっている店員のような女性に心が惹かれるきらいがあった。そして、グズグズになった濡れ雑巾を握りしめ、それでも笑顔でがんばっているみたいな女性を見ると、私は何とも言えぬ感慨を抱くのである。
こんなことを言うと、それはカッコつけた発言ですね。妄想の世界のお話の中できれいごとを言っているだけのあなたは滑稽ですよ。本当は蠱惑的な美人が好きなくせに。あるいは一種の性癖ですね。気持ち悪い。こんなくだらない文章は即座に削除していただいて、白装束に足袋で高野山を練り歩いて心を入れかえてください。魂を清めてください。そうでなければなぶり殺されろ。とか方々から言われるかもしれないが、それを言われても私は無視をする。


進行方向右側の客室で子どもが甲高い声で絶叫していた。その四つくらい先の客室から変なカップルが出てきた。軽薄な恋愛に陶酔しているような男女である。どちらも二十半ばくらいなのだが、男はかた焼きそばを頭にぶっかけたような髪型で、妙にクネクネしており、色眼鏡をかけ、西瓜の絵が描いてある水色のTシャツにタイトな黒パンツ、一方、女は白粉を厚塗りした阿波人形浄瑠璃みたいな顔をしており、胸に白文字で「弥勒」とプリントされた紺色のTシャツに膝がボロボロに破れまくった駱駝色のルーズなパンツといういでたちだった。彼らは互いの体を密着させて不必要にいちゃいちゃしている。



私は内心で、「げえ。ずいぶんと気色の悪いカップルだなあ。見るのが堪え難い。いや、見ないでおこう。網膜剥離になるかもしれないしね」と思っていると、男が女のズボンの破れ目を猫の頭でも撫でるような手つきでさすり始めて、「これ、気持ちいいよねー。ずっと撫でていたい最強の手触りだよねー。このほつれた糸を引っぱってもいいかなぁ?」などと猫撫声で言うので、私は鳥肌が立ち、本当はベースギターか何かでひと思いに男の頭を強打してやりたいところだが、一応はお客様なのでそうするわけにもいかず、カップルの横をしつけの悪い犬の如く闇雲に走り抜けようとしたところ、白塗りの女が、「好きなだけ撫でなさいっ」と命令口調で言って、返り目みたいに目玉がひっくり返って異形の相になったので私は閉口した。慄然とした私は背筋をピンと伸ばしてその場で立ち止まり、彼らに深々と頭を下げた。私は屏風絵から飛び出した歌舞伎役者のような顔で床を見ていた。本当に気色が悪い。あんなものを見ていると脳が溶けて蓄膿症になりそうだと思うと、鼻腔を不快な熱が圧迫してきたので、思わず顔をあげたら、すでに彼らの姿はなかった。


すると、前方からインルームダイニングのワゴンを慎重に押してくる社会人一年目みたいなういういしい、サービスエキスプレスの女性スタッフがやってきて、清洌な空気を吸い込んだような笑顔で私に、
「成田さん、おつかれさまです!!」
と言ったが、その瞬間に国産牛フィレステーキやペスカトーレなどの料理が並ぶテーブルの端に置いてあるヨーグルトの小器を床にボトッと落下させた。
「ああ、やっちゃったあ。まいったなあ…」
と言って顔をしかめた彼女は小器を拾い上げると、
「もっかい、レストランへ戻んなきゃ」
と言って踵を返し、肩を落として歩いていった。
私は彼女の華奢な背中を見ながら微笑んでいた。
応援しているからがんばって。こっちもがんばるから。そんなことを思いつつ、私は前進した。もう、さっきの裸の女のことは頭の中から消滅していた。


          〜了〜



愚かな駄文を読んでいただき、ありがとうございました。大変感謝申し上げます。

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