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世田谷区歴史探訪②『松陰神社』編

今回は『世田谷区歴史探訪』の記事、第2弾です。

前回の記事では、『三軒茶屋駅』〜『世田谷代官屋敷』
『世田谷駅』近辺にある『長崎ちゃんぽん』という飲食店を紹介しました。

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『世田谷代官屋敷』

今回はここから、東側の三軒茶屋・渋谷方面へ足を伸ばしてみて、『松陰神社』へ向かいます。

④『東急世田谷線 松陰神社前駅』

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『世田谷線 松陰神社前駅』

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『松陰神社前駅』に電車が到着。

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『松陰神社前駅』駅名標。

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『松陰神社前駅』は、『世田谷駅』のすぐ隣の駅。

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実は『世田谷代官屋敷』からも、歩いて行ける。(地図上では徒歩14分)

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『世田谷駅』〜『松陰神社前駅』まででも、わずか徒歩5分の区間。

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『世田谷代官屋敷』〜『世田谷駅』まで徒歩7分なので、電車の待ち時間などを考えれば、歩いたほうが早い場合もあります。

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『松陰神社前駅』出口の表示にある通り、『世田谷通り』とは反対方向、
『若林公園・松陰神社』方向へ向かいます。

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『松陰神社前駅』⇨『松陰神社』までは、徒歩約6分。

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『松陰神社通り商店街』
ここも、普通のどこにでもあるような、下町商店街です。

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前方に『松陰神社』の鳥居が見えてきました。

⑤『松陰神社』

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『松陰神社』

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その名の通り、『吉田松陰』が祀られている神社です。

⑤ー1.『松陰神社』沿革

『松陰神社』公式HP

『松陰神社』は、
・東京都世田谷区
・山口県萩市

両方にあります。

幕末の思想家・教育者である『吉田松陰』、および彼の門人である、
・『伊藤博文』
・『山縣有朋』

など、『松下村塾』の生徒を祭神とする神社で、学問の神として崇敬を受ける。

・「山口県萩市出身の吉田松陰がなぜ、東京の世田谷に祀られているのか?」

『松陰神社』鎮座地には、かつて長州藩主の別邸があった。

吉田松陰は、「安政の大獄」により、
1859年 処刑。

1863年 松陰の門人「松下村塾」門弟の『高杉晋作』らによって、小塚原の回向院にあった松陰の墓から、

若林村(現・世田谷区若林四丁目)の『長州藩毛利家抱屋敷』内に改葬された。

1864年「禁門の変」後の「長州征伐」の際に、墓所は一度破壊された。
しかし、4年後、
1868年 藩命を受けた『木戸孝允』が新たに墓碑を立てている。
※現在の社殿は1927年〜1928年にかけて造営されたもの。
さらに14年後、

1882年 『毛利元徳』(長州藩最後の藩主)や松下村塾門弟らにより『松陰神社』が創建された。

吉田松陰が萩で開いた「松下村塾」で薫陶を受けた塾生たちは、のちに多くが、
・「幕末の志士」や、
・「明治の元勲」

になった。
そのため吉田松陰は、処刑後に丁重に葬られ、さらに立派な神社となった。

『世に棲む日々』①〜④巻 司馬遼太郎
『吉田松陰』
と、その門弟『高杉晋作』2代にわたる人物を通して、幕末の主に長州藩の動きを描いた歴史小説。
主に長州藩寄りの幕末という時代について詳しく描かれているので、
さらに詳しく知りたい場合は、こちらの小説を読んでみてください。

⑤ー2.『松陰神社』境内案内

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『松陰神社』大鳥居

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『吉田松陰像』※ブロンズ像

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『手水舎』

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『御社殿』

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境内の石畳の参道
※『御社殿側』
から『大鳥居』方面を撮影しました。

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『松陰神社前駅』に戻って、再び世田谷線に乗車。

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終点『下高井戸駅』方面に向かって、3駅先の『宮の坂駅』へ向かいます。

⑥閑話休題『吉田松陰』と『高須久子』

※世田谷の『松陰神社』とは直接の接点はないけど、個人的に『吉田松陰』という人物の生前のエピソードとして好きなものが、『高須久子』という女性との関わりです。

『吉田松陰の恋』古川薫

作家『古川薫』による『幕末の長州』を舞台にした5編の短編集。
・「お絹と男たち」
・「後裔たちの海程」
・「刀痕記」
・「見事な御最期」
そして、表題作

・「吉田松陰の恋」(原題『野山獄相聞抄』)

1854年 黒船への海外密航に失敗した『吉田松陰』が、長州萩(現山口県萩市)の『野山獄』に投じられた。
『岩倉獄』には従者だった『金子重之助』が投じられた。

・『野山獄』=士分の者を収容する上牢
・『岩倉獄』=庶民を収容する下牢

松陰は、『野山獄』で仲間の囚人たちに孟子の講義をする。
同時に自らも俳諧や書を学んだ。
また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれているほど。
ここで松陰は、前例のない教育活動を行った。

『野山獄』には当時、11人ほどの囚人が投獄されていた。
最年長は在獄42年で74歳の『大深虎之助』

『富岡先生』国木田独歩

37歳の『富永有燐(富永弥兵衛)』(後に国木田独歩の小説『富岡先生』のモデルになった人物)らが投獄されていた。
吉田松陰は一番若い、25歳。
その囚人の中に紅一点、在獄2年の『高須久子』がいた。

※高須久子が野山獄に投獄された経緯については、詳細は省きます。
短く言えば、武家である実家『高須家』の家族との不仲が理由。(罪人ではない)

『野山獄』に入った吉田松陰は若かったので、当初、他の囚人からは軽視された。
しかし次第に、他の囚人たちと仲良くなっていく。
まず、松陰が長崎で学んだことを、他の囚人たちに講義するようになった。
以降、俳句が得意な者は御礼に松陰に、俳句を教えたりするなど、お互いの囚人同士で得意分野を講義しあうと言う交流も始まった。
こうして、一種の獄中サークルのような交流が形成された。
やがては看守『福川犀之助』までが、その輪に参加して、吉田松陰の講義に耳を傾けたと言う。

なお、長州藩の『野山獄』と言っても、藩の罪人は2名のみ。
他の者は親族からの申し出による入獄。
もちろん、武家向けの牢獄だったので、拷問などもなく、差し入れも自由。
親戚縁者が支援する限りは、食べ物にも困らなかった。
しかし、罪人ではない借牢の場合は刑期(期限)がない。
事実上の無期禁固であった。
藩の罪人である松陰ともう一人の囚人以外の出獄は、ほぼ無理だった。

・『高須久子』という実在の女性

※この『高須久子』という女性に関しては、史料も少なく、生い立ちなど不明な部分が多く、いまだにwikiすら作成されていない。

野山獄中で、高須久子が吉田松陰と出会った時点で、彼女は松陰より12歳年上の37歳だったとされる。
久子は萩の武家中でも高禄の『高須家』で育った為、彼女は当然、短歌や俳句の知識もあった。
そして獄中で、吉田松陰と交流するようになった。

のちに吉田松陰が杉家預りの謹慎とされ、刑が軽減されることになる。
松陰が野山獄を出る際に、高須久子は、
「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」の一句を贈っている。

出獄後、吉田松蔭は長州藩に野山獄の囚人釈放を働きかけた。
その結果、約80%の囚人が出獄できたと言う。
そして、獄中で知り合った『富永弥兵衛(のちの富永有隣)』を、松陰が開設した『松下村塾』の講師に招いて、高杉晋作、久坂玄随、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文ら門下生が学んだ。
しかし、『高須久子』の場合は、親族が反対して釈放されていない。

1858年 吉田松陰は、徳川幕府の老中『間部詮勝』を暗殺する計画と、仲間である『梅田雲浜』の奪還計画を企てる。
それを知った長州藩は、再び松陰を野山獄に投獄。
そして、松下村塾を閉鎖する。
こうして松陰は、再び高洲久子と再会。

約6ヶ月後、
1859年 『梅田雲浜』が幕府に捕縛されたため、吉田松蔭も『安政の大獄』に連座される。
そして、松陰の身柄は江戸へ送られる事となった。
高須久子は、吉田松陰が江戸に送られる2日前に、獄中で自ら手縫いした「手布巾」を贈った。
吉田松蔭はお返しに、俳句一句を贈った。

このような松陰と高須久子との交流の事実から、
高須久子と吉田松陰の間の『恋愛感情』を指摘する声もある。
その恋愛感情をテーマにして、作家『古川薫』は、短編歴史小説『野山獄相聞抄』を書いた。
この『野山獄相聞抄』は、のちの文庫本化に際して『吉田松陰の恋』と改題された。

江戸に送られた吉田松陰は、
1859年10月27日 江戸伝馬町で処刑される。
その後小塚原回行院に埋葬され、
さらにのちに江戸長州藩邸に改葬された。
その跡地がのちに世田谷の『松陰神社』となる。

・その後の『高須久子』

高須久子は、野山獄に入った松下村塾門下生『高杉晋作』や『小田村伊之助』とも交流があったものと推測される。

1868年(明治元年)新政府が樹立されると野山獄は廃止された。
そのため、高須久子は出獄した。(事実上の『恩赦』)
この時、高須久子は51歳くらいの年齢と推定される。
しかし彼女は、最後まで家族との関係は悪く、高須家には戻らなかったと言う。
久子が、明治に入ってどのような生活をしていたのかは不明。

2003年 吉田松陰の門下生である元長州藩士『渡邊蒿蔵』の遺品が萩市に寄贈された。
その際、一首の歌が書かれた茶碗が発見された。
その茶碗は、吉田松陰が野山獄で使っていた形見とも考えられている。

その茶碗には、釘らしきもので、
「木のめつむ そてニおちくる 一聲(せい・声)ニ よをうち山の 本とゝき須(ホトトギス)かも」と彫られている。
その最後に「久子 六十九歳」とある。

晩年の高須久子は、長い獄中生活が祟り、目は衰えて、足が萎えて曲がらなかったと言う。
それでも長寿を全うし、
1904年(明治37年)『高須久子』88歳でこの世を去った。

・映画『獄(ひとや)に咲く花』

映画「獄(ひとや)に咲く花 ~吉田松陰の恋~」予告編

『獄(ひとや)に咲く花』2010年
監督 石原興 公開 2010年2月6日
脚本 松下隆一、 カオル・フルカワ、 水野青洞
出演 ‎ 近衛はな、前田倫良、目黒祐樹、 赤座美代子、池内万作他

直木賞作家・古川薫の『野山獄相聞抄』(改題『吉田松陰の恋』)の映画化。
この映画では、
『高須久子』⇨『高須久』となっていて、女優『近衛はな』が演じている。

もちろん『吉田松陰』と『高須久子』の関係が『恋愛感情』だったというのは、推測に過ぎない。

⑦『東急世田谷線 宮の坂駅』

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『東急世田谷線 宮の坂駅』

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『松陰神社前駅』での世田谷線車内

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世田谷線車内の運賃箱。

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『宮の坂駅』へ向かう途中。

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『松陰神社前駅』〜『宮の坂駅』区間は、乗車時間約5分。

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『宮の坂駅』到着。

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前回の記事でも紹介した、この世田谷線の緑の旧車体は、『宮の坂駅』に展示されています。

・To Be Continued.

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ここから次の世田谷区の史跡『豪徳寺』へ向かいます。

『豪徳寺』の紹介は、次回の記事で。

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