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『Ultraman: Rising』が拓いたウルトラマンの新地平:自己啓発を基盤として描かれたヒーローの使命の二重性

 ウルトラマンの楽しみとは、擬古的なオマージュの森林に分け入ることでもなければ、膨大かつ複雑怪奇な設定の山岳を踏破することでもない。しかしながら、長期化したシリーズにはよくあることながら、ウルトラマンの歴史は制作会社やテレビ局を含む多種多様な利害関係者間の力学によって偶発的に生み出された後付けの設定の山積とならざるをえなかった。そのため、ウルトラマンの新作を生み出す際には、先行作品の伝統ないし遺産をどの程度継承するのか、そしてそもそもどの範囲までを参照すべき先行作品とみなすのかという問いが必ず立ちはだかる。この状態は後続のクリエイターにとっても、ファンにとっても望ましくない。前者は、不用意に伝統を放棄することによって、既存のファンから「こんなものはウルトラマンではない」という非難を浴びるリスクを負っている。このリスクを回避ないし低減するために、前者は先行作品で活躍したヒーローを親や先輩として再登場させたり、先行作品に登場した怪獣や星人を追加設定とともに甦らせたり、キャラクターの借用はしなくとも擬古的なオマージュによって既存のファンの「ノスタルジー」を刺激したりするなど、保守的な選択に甘んじる傾向がある。後者は後者で、前者と共犯関係になって擬古的なオマージュを大袈裟に喜んでみせたり、山積した設定に過剰適応して「シネマティック・ユニバース」を堪能することが既定路線であるかのような態度をとってみせたりするなど、新規参入の障壁を高くするばかりか、批評を嫌い考察を好むファンダムを形成して、クリエイターの自縄自縛に拍車をかけている。しかも、いまやクリエイター自身が先行作品のファンであることは珍しくないから、事態はより深刻である。既存のファンの「新鮮なウルトラマンが見たい」という期待に応え、同時にウルトラマンのことをよく知らない層にもリーチできるといった適度な塩梅を実現することはきわめて難しくなっている(*)。

(*)『シン・ウルトラマン』は、「新鮮なウルトラマンが見たい」という切実な期待に応えようとする意識がまったく見られない、したり顔のパッチワークで構成されたキザな作品の典型例である。当該作品が結果的にヒットしたことは、いわゆる大衆ウケというものが歴史ないし元ネタに関して無知な多くの観客と、反対にそれらを熟知しておきながら向上心がなく、脊髄反射的に特定の視聴覚的表現や画角に反応することを美徳か何かと勘違いしている一部のファンの野合によってできあがっているということを示す不愉快なサンプルとなっていた。

 かかる状況下において、2024年6月14日からNetflixで配信が開始されたアニメ映画『Ultraman: Rising』は先行作品へのリスペクトを残したまま(**)、ウルトラマンの大胆な新解釈を提示しており、まさに換骨奪胎と呼ぶにふさわしい秀作となった。この実験の場が実写ベースの特撮ではなくILM(Industrial Light & Magic)が手掛けた3DCGアニメーションであったこともまた、擬古的な質感が発生しようがないという意味で、「新鮮なウルトラマン」に向けて過去のしがらみを断ち切ることに一役買っている。本作において共同で監督を務めるのは、シャノン・ティンドル(Shannon Tindle)とジョン・アオシマ(John Aoshima)の二人だ。二人は2016年に英国アカデミー賞 アニメ映画賞を受賞した『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』に主要スタッフとして参加しているが(ティンドルは制作・脚本・キャラクターデザイン・俳優演出を、アオシマはストーリー責任者を担当している)、『KUBO』に見られた「アジア的」な習俗や美術の混淆――より好意的に受け取るなら「習合」――は『Ultraman: Rising』においていっそう洗練されており、本作の舞台が想像上の「アジア」ではなく、確かに東京であるということが街並みや道行く人々の服装・所作から説得力をもって伝わってくる。それに加えて、本作は後述するようにストーリーの面では自己啓発映画として射程の広い成功を収めたと言える。本作のバランス感覚は傑出しており、ミュージシャンで作家のタカハシヒョウリが本作を「アクション満載のエンターテイメントとしても、家族で楽しむファミリームービーとしても、長年のシリーズのファンだけでなく、あらゆる人たちにとってウルトラマンの世界に触れるきっかけになる作品となっている」(『モノ・マガジン』940号、2024年、23頁)と評しているのは妥当である。

(**)ここで細かい元ネタ解説を始めるとキリがないし、本稿の趣旨からもズレるので、本作に込められたリスペクトの数々の詳細については他の記事に譲ることにする。参考として、シネマトゥデイに掲載された監督インタビュー記事をいくつか示しておく。

 本作の特筆すべき点は、ウルトラマンであることをいわば「家業」と位置づけ、父から「家業」を継承した新米ウルトラマン、サトウ・ケンの苦悩・葛藤・精神的成長を正面から描いたことである。日本で生まれ育ち、少年時代に親の都合で渡米したケンは、ゴールド・グラブ賞やシルバー・スラッガー賞に選ばれるような米国野球界のスター選手となっていた。ある日、ケンは加齢と怪我により戦えなくなった父に代わってウルトラマンの使命を担うため、日本への帰国を余儀なくされる。ケンは読売ジャイアンツへの移籍を受け入れ、プロ野球選手とウルトラマンの二重生活に忙殺されていく。ケンの両親はケンに対して、ウルトラマンの使命は均衡を保つこと(maintaining balance)、均衡点を見つけること(finding balance)なのだと説くが、ケンは当初その意味するところが理解できない。いきなり日本に呼び戻され、無我夢中で怪獣と戦っても、戦闘によって街が破壊されれば、民衆から「スタンドプレーをやめて仕事をしなさい!」(Stop showboating and do your job!)と叱責され、ニュース番組の街頭インタビューでも「ウルトラマンは昔はとてもよくやってくれていたけど、何か月も姿が見えなくなって、戻ってきたと思ったら仕事が雑になったみたい」(He’s done so much good in the past. But he’s been gone for months. And now that he’s back, it’s like he doesn’t really care)などと批判される始末で、ケンは割に合わない「家業」に閉口する。そんな中、政府機関のKDF(Kaiju Defense Force)に奪われた卵を追って、怪獣ジャイガントロン(Gigantron)が東京に上陸する。ジャイガントロンはKDFの執拗な攻撃によって負傷し、卵から孵化した赤ちゃん怪獣を残して動かなくなってしまう。ウルトラマンに変身したケンは赤ちゃん怪獣をKDFから保護するため、思わず自宅に連れ帰ってしまう。この女の子の赤ちゃん怪獣(のちにケンの母にちなんで「エミ」と名づけられる)は、刷り込みによってウルトラマン=ケンを親として覚え込み、愛着を示すようになる。こうして図らずもケンは巨大な赤ちゃん怪獣の世話をせざるをえない状況に陥る。それにしても、身長41mのウルトラマンから見れば手の平に収まる赤ちゃん怪獣が、人間から見ればはるかに大きい約6mの体長(20 feet tall)を備えているというのはなんと愛おしいことだろう。ケンの変身が赤ちゃん怪獣の前で解けてしまうシーンは、庇護されるべき無力な赤子が潜在的な破壊力を秘めた脅威へと瞬間的に切り替わるという背筋の震えるような怪獣の美しさを端的に示しており、必見である。閑話休題、ケンは自分のバイオリズムとは関係なしに泣き喚き、糞便を垂れ流す赤ちゃん怪獣に手を焼いているうちに、野球の個人成績は低迷して、憔悴を深めていく。疲れ果てたケンは、自分に単独インタビューを敢行してきたシングルマザーの記者、ワキタ・アミに電話をかけ、「オフレコ」で5分間相談に乗ってもらう。ケンはアミに仕事と育児を両立する秘訣を尋ねる。アミはケンが育児に関する意見を求めてきたことに驚きつつも、子供を「小さな怪獣」(little monsters)にたとえながら、子育ては大変だが親が子供から学ぶことも少なくないと述べる(I’m learning as much from her as she is from me)。この短い通話がケンの意識を変える一つのきっかけとなる。

 ここで改めて、本作が提示したウルトラマンの使命に立ち返ることにする。均衡を保つ(maintaining balance)、均衡点を見つける(finding balance)というのは、人間と怪獣の程よい境界線を見つけ、人間と怪獣を地球上で釣り合いのとれた状態に保つことであると言い換えることができる。一方で、怪獣が人間の社会生活に危害を及ぼせば、ときに怪獣を倒し、ときに境界線の向こう側まで押し戻す。他方で、人間が怪獣の殲滅を推進するのであれば、怪獣を無用の殺戮から保護する。本作が冒頭のモノローグでケンに語らせているとおり、怪獣は悪者(villain)ではない。怪獣は侵略者や悪質宇宙人とは根本的に異なるカテゴリーである。それは人里に降りてくる熊と同じようなもので、人間による環境破壊や汚染といったエゴイスティックな(今風に言えば持続可能性のない)行為を原因として出現し暴れることが通例である。本作においても、ジャイガントロンはKDF、特におん博士の私怨によって奪われた卵を取り戻すために東京へ飛来した。怪獣によって妻子を亡くし、怪獣を人類の敵として全滅させることを企図する穏田は、怪獣たちが数多く棲息する「怪獣島」(Kaiju Island)への船頭とするために、ジャイガントロンの卵および幼体を求めた。これはウルトラマンの使命に照らして、明らかに人間と怪獣の均衡を失する行為であり、均衡を保つために最終的にウルトラマンと穏田が衝突するのは必然だと言える。穏田は自分の妻子を守ってくれなかったウルトラマンを恨んでいるが、そもそもウルトラマンは単なる人類の守護者ではないのであって、穏田の私怨は失当である。ここで理解の助けとなるよう、一本の補助線を引こう。実は、本作の日本語吹替版においては、ウルトラマンの使命は「調和を保つこと」または「調和を見つけること」と訳されている。留意すべきことに、「調和」と訳されている元々の言葉はbalance(均衡)である。「調和」といわれると、表面的な対立・矛盾を解消すること、より丁寧に言えば表面的に対立・矛盾しているように見える複数項を大原理(またはある観点)のもとで統一的に理解することを思い浮かべてしまうが、原語のbalanceにそのようなニュアンスはない。ウルトラマンは人間と怪獣を和解へ導く調停人でもなければ、人間と怪獣の関係を決定することを委ねられた仲裁人でもないのである。言い方を変えれば、本作では人間と怪獣が「共生」することまでは想定されていない。怪獣は体が大きく力が強いというだけで、どうあっても人間の脅威となってしまう。だから、せめて境界線の向こう側で穏やかに暮らさせてやりたい――そのように考えるのが均衡点の模索にほかならず、これは自然保護区を設けて人間の立入を禁止ないし制限する発想に近い。本作は怪獣という存在の悲しみ・哀れさをよく理解しており、だからこそウルトラマンを善悪の次元で安直に理解することもしていない。仮にKDFや穏田を悪と捉えたとしても、ウルトラマンが善とはかぎらない。本作はウルトラマンとは何なのかをあえて説明しないことによって――サトウ一家が生粋の宇宙人ウルトラマンなのか、それとも宇宙人と人間が合一した姿が銀色の巨人ウルトラマンなのかは本作だけではまったくわからない――ウルトラマンを得体の知れないマージナルな存在のままにとどめている。それゆえに、ウルトラマンとして使命を全うし、民衆から「ヒーロー」として認められるためには、内的な均衡を十分保てるだけの精神的な成熟が不可欠となる。

 ケンの父はケンに、ウルトラマンになることは単に戦いに身を投じることではなく、心(heart)の問題だと語る。本作において、ウルトラマンは心拍数が上がり、ストレスを感じると胸のカラータイマーが点滅してパワーを失い、やがて変身が解けて人間の姿に戻ってしまう。これは非常に面白いアレンジだ。何となれば、カラータイマーの点滅が客観的に決められた制限時間(たとえば3分間)ではなく、メンタルバランスの失調に起因することになれば、ウルトラマンの力を十分に引き出すためのメンタルコントロールが必要となるからだ。ウルトラマンとしてなるべく長く活動し、均衡点を見つけるという使命を全うするためには、不動心を身に着けなければならない。ここでいう不動心とは感覚を鈍麻させることではなく、自分で自分の機嫌をとれるようになることを意味する(アンガーマネジメントや感情マネジメントと言い換えてもいい)。不動心を得るためには、自分の感情のクセを理解すること、そしてそれを矯正することが必要だが、これは存外難しい。自分の過去と向き合い、自分の本音・欲求・心の叫びを知り、自分の弱さを受け入れて前進の糧とするのは苦しい作業である。ケンもまた、一人では自分の本音・欲求・心の叫びを言語化することはできなかった。ケンはアミとの対話を通じて、自分の望むものは名声でも金銭でもなく、父からの承認であったことに気づく。ケンは帰国後に父と久々の再会を遂げた際、希少なジャイガントロンの死を悼むような話ばかりする父に苛立ちを隠さず、父が母の失踪という家族の問題と向き合わなかったと決めつけて(本作の後半でこれは勘違いであったことが明らかになる)、「あんたは関心さえ示さなかった」(You didn’t even pay attention)と父を詰った。ケンは怪獣に嫉妬していた。ケンは自分のことを見てほしかった。父から注目されたくてたまらなかった。そんな気持ちを素直に伝えられず、「自分を見てほしい、認めてほしい」という欲求が昂じて、ケンはプロ野球選手としてもウルトラマンとしても、自分本位の派手なスタンドプレー(showboating)を繰り返し、チームメイトや監督といった周囲の人間から煙たがられてきた。アミはケンの抱える問題――押し殺してきた欲求――を見抜き、「世界のどんなものより、あなたはお父さんに注目されることを望んでいるのよ」(More than anything in the world, you want him to notice)とケンに語りかける。折しも、赤ちゃん怪獣がケンの自宅地下にあるシェルターから外に出てしまい、KDFから追われることになってしまう。赤ちゃん怪獣はケンの飛行船広告を追いかけて東京タワーに登り、KDFの放った鎮静剤をその身に受けて落下する過程で負傷してしまう。赤ちゃん怪獣の一大事に、ケンは父に助けを求める。「子はかすがい」という言葉さながら、二人は親友にはなれなくても、赤ちゃん怪獣のために協力し合うことを約束する。ケンは赤ちゃん怪獣の回復過程で父と部分的に和解を遂げ、自分よりも大切なものに対する愛情と利他の精神の重要性に気づくことになる。この気づきがケンの仕事にも良い影響をもたらす。メンタルバランスの安定がケン自身を選手として復調させたばかりか、ケンのチームメイトとの接し方を根本的に変えた。そして、ケンとチームメイトの関係改善を受けて、読売ジャイアンツは信頼と相互理解に支えられた強靭なチームに変貌を遂げ、念願のプレーオフ進出を果たすことになる。

 かかる展開は自己啓発を奨励する思想に依拠していると言うことができる。変えられるのは自分だけであり、まず自分が良い方向に変われば、おのずと引き寄せる人も変わり、周囲も良い方向に変わっていく――このような考え方はビジネスパーソンから専業主婦層にいたるまで、コーチング、メンタリング、組織開発、スピリチュアリズムなど様々な文脈で広く浸透し受け入れられている。それゆえ、本作が万事を成功に導く基盤に自己啓発を据えたのは通俗的ながらも、マニア向けの箱庭と化したウルトラマンの負の遺産を清算して再出発するうえではきわめて有効な選択であったと評価できる。最終盤、自己啓発の末にメンタルバランスを保つことを体得し、ウルトラマンの力を安定的に引き出すことができるようになったケンは、赤ちゃん怪獣を付け狙う穏田が操る巨大ロボットとの戦いに挑み、辛くも勝利を収める。そして、本作の幕切れにおいて、ケンの一時的な子育ては終わりを迎え、赤ちゃん怪獣は安住の地と言うべき「怪獣島」へと運ばれていく。こうして人間と怪獣のあいだには暫定的な境界線が引かれ、東京は平穏すなわち均衡状態を取り戻す。このように、本作は自己啓発を基盤として、ウルトラマンの使命と紐づく均衡(balance)という言葉を二重の意味で捉えたことによって、首尾一貫した爽やかな視聴体験を提供することを達成した。下手すると人間による自然の征服を追認したり、人間(あるいは自勢力)が地球上で特権的な地位を占めているとの思い上がりを強化したりすることにもなりかねない「均衡を保つこと」(maintaining balance)という自称リアリスト寄りの言葉を人間一人一人の精神的成熟、より正確に言えばマインドセットの改革に還元していく手腕は見事と言わざるをえない。ウルトラマンが「すべては気の持ちようである」と言わんばかりの自己啓発路線に活路を見出したのは、大衆への訴求力の観点で適切であった。本作がもっと広く評価されることを祈ってやまない(それこそ、均衡を保つために)。

 ここからは余談になるが、視聴覚的に面白かった点をいくつか挙げて、筆を擱くことにする。まずは最終盤、『機動武闘伝Gガンダム』のモビル・トレース・システムを彷彿とさせる仕組みで動く穏田の巨大ロボットと二人のウルトラマン(サトウ父子)が対峙する場面で、ウルトラマンの体型が変身前の人間時のそれに左右されることが明らかになるのは面白い。ケンの父はケンが幼かった頃と比べて背が縮んでおり、それを反映して先代ウルトラマン(Ultradad)は中年ないし老人然とした体型に変わっている。ここで初めて、本作におけるウルトラマンのマッシブなデザインがプロ野球選手のケンの体型に依存していたことが視覚的に理解できるため、ノンバーバルな見せ方としてこの上なく巧い。次に、日本語吹替版と英語版(オリジナル)を見比べると、声優の違いによってケンの印象が大きく異なるのは興味深い。山田裕貴が演じる日本語吹替版のケンはかなりダウナーな感じに聞こえ、それゆえに記者会見などでワントーン高い余所行きの声を出したり、自分の思い通りにならない場面で苛立って声を荒げたりすると、わがままで自信過剰だが内面は脆く、つねに何かに怯えているという矮小な小物感が際立ち、嫌味な印象すら受けた。そのぶん、メンタルバランスを保てるようになった後の穏やかな発声はケンの成長をわかりやすく伝えていた。これに対して、英語版のケンは「こういうアメリカ人普通にいるよな」と思わせる通常レベルの抑揚にとどまっており、等身大の青年に聞こえる。言語の違いによってオーバーリアクションや取り繕い感の閾値が変わるのは面白い(***)。なお、立木文彦が演じる穏田博士は「いかにも感」が強すぎて浮いているが、恒松あゆみが演じるスーパーコンピュータ・ミナは英語版をトレースしたような質感を維持しており、音声の加工が伴っているとはいえ、恒松の確かな実力を感じさせた。最後に、赤ちゃん怪獣エミの可愛らしさについては贅言を要しない。がおぱわるぅみたいなものだと考えてほしい。

(***)似たような話として思い出されるのは、ディズニー100周年を記念したアニメ映画『ウィッシュ』である。女子SPA!に掲載された以下の記事では日本語吹替版でマグニフィコ王を演じた福山雅治の演技が「やりすぎ」だと評されている。日本語吹替版と英語版(オリジナル)を見比べた結果、日本語吹替版のほうが妙な臭みやえぐみを残すことがあるのは実に面白い。単純に私が日本語の母語話者であり、普段日本語を耳にする機会が多いから、日本語の音声にいっそう敏感なだけかも知れないが……。

参考文献

『モノ・マガジン』940号、2024年。

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