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お客様がいらっしゃる家

現代の日本の住宅から消えたのは客間だと言われています。スペースが自ずと限られる都会生活では致し方ないという実状もあるかも知れません。

ちなみに「百科事典が最も売れたのは日本に客間があった時代まで」と言われています。読むかどうかは別として、ドカッと立派な本を客間に飾る人たちが昔はいたわけです。どうしていたのか?それは当時の住宅の間取りに関係があると推察してゆくことが出来ます。

これまで近代日本の住宅のデザインは居住スペースである複数の和室に対し、洋室の客間一部屋でした。しかしこれが過去30年ほどの間の生活様式の変化で見事に逆転していきます。現在の住宅の間取りは複数の洋室に対して和室一部屋。和室ゼロのお家もあるはずです。そしてリビングがとりあえず人を呼べる場所ということになり、客間というスペースは今ほとんどの家から消えました。

しかし客間が物理的に消えてしまえば本来そこに追随する「客間の概念」までもが損なわれてしまいます。一般的に、家に茶室のない人間に千利休的なお茶会を来週あたりにお友達を呼んで開こうかしらという発想がないのと同じです。「考えなくてはいけないことが一つ減るから良い」、と考えることもできるかも知れません。けれど現実には大勢の人が、いざ来客があると困るんですね。

日産でかつてGT-Rの開発責任者だった水野和敏氏は非常に優れたエンジニアで、デイトナ、ルマンをはじめとする様々なレースで日産車をぶっちぎらせ、ついには競争相手が「日産を負かすことができないから」という理由で次々にレースから撤退し大会そのものが消滅するという恐ろしい戦歴を持っているのですが、その彼が引退前に心配していたことは、「毎朝300km /h 出せるアウトバーンをかっ飛ばして通勤してくる社員が集うドイツの自動車メーカーと、かたや電車に揺られて出勤する日本メーカーのエンジニアとでは通勤中に考えていることが違いすぎる。日本の自動車メーカーが今後も自動車市場で勝っていくことは本当に厳しいと思う」ということでした。

これは客間のない家に住む現代の設計士に客間のデザインを任せられるのか、という心配にもつながります。設計士の家に客間がなければかなりの確率でその設計士は自分のクライアントにもきっと客間はいらないだろうと考えている。物理的な空間を作る仕事をしているのは設計士なので、仕事をする上で設計士自身にとって身近でないものを取り扱うか否かを選択するとなると、どうしても「なくてもいいのではないですか」という提案の方が間違いなく増えていきます。だから日本に客間のない家が増えていくことになります。では客間はない方がいいのでしょうか?

客間を住宅から削るとどのようなことが起こるかということはパーキンソンの法則というものに結びつけて考えることができます。パーキンソンの法則は「データ量は与えられた記憶装置のスペースを満たすまで膨張する」というものです。住宅から客間を削ると、全てが居住スペースとして使えるから広くなって嬉しいと住まい手が考える一方で、全ての空間を好きに使うと全ての空間に個人的なモノが増えていく結果を招きます。結果的に「ちょっと今、片付いてないから」と、人を自宅に呼ぶことはますます困難になる上に、結局のところ目一杯スペースを活用しているつもりにも関わらず、必ずしも広いとは思えなくなるということが起こります。僕はそれではそこに暮らす上での家族の充足感や幸福感に少なからず影響が出るだろうと考えています。

改善させることは可能だろうか、ということも考えます。空間をデザインする上で個人的に役立っているのは、正面玄関と玄関に面した部屋が全て来客用である実家の和の住宅に加えて、色々な国を旅行した際にホテルに滞在した経験です。

欧米のホテルの良い部屋はおよそ40平米。22畳に相当します。スイートルームの面積は一般的にこれの倍です。ですから「宿泊代がバカ高い部屋」と考えられているスイートルームは80平米ほどの空間だということになります。日本の戸建ての平均面積は約100平米です。毎日家族でスイートルームより広い空間に日本人は住んでいます。そう考えると、スイートルームに家族で住んで、20平米の客間を一つ持った方が、住まう人間の体感値上の空間は本来広くなるはずなのです。


僕の住宅のお話を最後に少し。僕の東京の寝室は10畳です。考え方としては10畳のスペースの中で自分の暮らしを営み、離れを含む残りの40畳ほどの空間は基本的に客間です。ですからよくお客さんがいらっしゃることになります。お客さんがいらっしゃるので西澤家は非常に綺麗に保たれています。ただたまに「プライバシーとか心配じゃないの?」と聞かれます。僕はそうおっしゃる人たちの心理もよくわかります。来客に対応する部屋を持っていないと、来客はその人の家のプライベートな空間に現れることになるからです。だから大抵の方が「プライバシーが」と言う。しかし例えば「うちの(タワー)マンションの共有ラウンジで話しましょう」、と言われると、この人は厳密には本当の意味でのプライバシーを心配しているわけではありません。だって、そのラウンジで会っている時点で相手に住所は明かしているわけです。ただ、自分の玄関から先に来客用の空間がないからラウンジで対応することになります。ラウンジで会うならホテルで会ったっていいわけです。しかし、そうなっていくと、その会合を何度重ねても「その人がどういう感性を持ち、どういう暮らしを営んでいる人間なのかはわからない」という不透明さが残ります。だから日本では取引をしたり親交を深めるために本来は客間があったわけです。こちらの自宅というポートフォリオを開示することで「私とはこういう人間です」と伝えられることには意味があった。だから昔は「百科事典」なんです。今は皆カフェを利用するので本当の意味で相手がどんな人なのか、デートをしても、商談をしても、面談をしても、相談をしても、わからなくなりました。人々が投稿するインスタグラムも外食や旅先の写真が圧倒的に多い。自称セレブ・インスタグラマーが実はとても狭い市営住宅に住んでいたことが発覚して皆が驚く。日本から客間が消えたことで、そういう社会になってしまった気がします。


おわりに

10畳に「住む」より50畳全て自分のものにしている方が豊かじゃないのかという考え方をどう捉えるか。僕は若い頃少しの間5畳ほどの木造のアパートに住んでいたのでそれから考えると10畳は当初の倍になりました(ちなみに5畳の時もロフトに「住んで」、下は客間です)。それに10畳の中に住めば、自分の暮らしの生活に関わる掃除は10畳分です。ですから残りの40畳をいつでも来客に解放できるような住宅に暮らす方が豊かという考え方も、僕はあっていいと思っています。


     ( 文・写真 / 西澤 伊織 )

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