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随筆(2020/9/5):クソリアリスト、ストレスに死す(そんなやつのどこが適応的なんだ)3. 「自分の目利きをどのように取り扱った方がよいのか」の処方箋(基本編)

3.「自分の目利きをどのように取り扱った方がよいのか」の処方箋(基本編)

3_1.そもそも、技能に寄与しないし、最終的には適応やニーズにも寄与しない目利きを、そこまで掘り下げる必要が、「基本的には」ない

「生き残る適応や、やりたいニーズがある。
そのための手段である、技能というものもある。これは、過度に伸ばしても、適応やニーズはある程度以上満たされないし、そういう意味では無駄になる。
まして、世界の見え方、目利きは、技能のためのものだ。目利きの解像度を過度に伸ばしても、技能は頭打ちになってることがあるし、適応やニーズには間接的にしか効かない。
というか、自分の技能をあまりにも越えた目利きは、要するに自分の技能ではどうにもならない、無力感をもたらす類いのものを、四六時中見せてくる。
こういうのは、人を消耗させる。つまりは、適応に、悪く働くことすらある

この前まで、そういう話をしていたのでした。

***

ということで、

「そもそも、技能に寄与しないし、最終的には適応やニーズにも寄与しない目利きを、そこまで掘り下げる必要が、「基本的には」ない」

という話になります。

(基本的に、というのがミソです。これは次回以降説明します)
(今回説明しないのかよ)
(また記事が長くなりすぎちゃったんですよ。そういうの、読む側を疲れさせるから、不親切じゃん。前回と前々回の反省があるんで、今回はザクザク行きますよ)
(あらかじめ言うとくが、ザクザク行けてへんやんけ。また長ったらしい記事になりよってからに)

3_2.目利きが、単に消耗をもたらすことすらある。その場合、そういうのは損だから、「基本的には」避けた方がいい

「いったい、どうなっているのか」

という問題の所在だけでなく、

「じゃあ、どうすればいいのか」

という解決の話を、処方箋みたいに、書いた方が望ましいんでしょうね。(そりゃそうだろう)

「問題は見えているが、どうすればいいのか分からない、だからどうにもならない」

ってんじゃあ、上の話、特に最後の二行と、同じ構造になってしまうもんな。

***

まあ、でも、話は「基本的には」簡単なんですよ。
上の話、特に最後の二行が、やはりポイントです。

「目利きが、単に消耗をもたらすことすらある。その場合、そういうのは損だから、「基本的には」避けた方がいい」

これです。シンプル。

3_3.リソース、コスト、ニーズ、そして損得は、価値観の背骨だ

3_3_0. リソース、コスト、ニーズ、そして損得は、価値観の背骨だ

(ここからかなり長くなり、削っても削っても長くなってしまった。いかんな…まあ、公開してる時点で、何の言い訳も成り立たないんだけど)

何らかの能力的・物質的・心理的・社会的資源、リソースこそが、ありとあらゆる価値観の原資だ。
コスト価値観の原資の金額。ニーズ価値観の外形的な金額。損得価値観の家計簿だ。
私にとって、価値観とは、これら4つで出来ている訳ではないが、これら4つを全部無視したら、基本的には成り立たない類いのものだ。

「価値観にリソースとかコストとかニーズとか損得とか持ち込むなんて、何言ってやがんだコイツ」

ええー?
それ、価値観の中でも、主に『綺麗事』の価値観やんけ。
ニーズが他の3つに優越しているだけで、露骨にニーズの話やんけ。

(そんな訳で、これらを部分的にしか持たない価値観もある。非常に基底的な、『真実』『現実』『所有』『効率』『美/醜』『(国家以前の一般化された)生存権』などが、例えばそうだ)

3_3_1.『所有』『効率』

ジョナサン・ハイト価値多元主義で言う『所有』『浪費/非効率』は、もちろんリソースコストと密接なかかわりがある。

リソース『所有』していたら、これを扱うのはとてつもなく簡単だ。

また、技能『非効率』ではなく『効率』的になると、消耗されるコスト低く抑えられる。リソースも長持ちする。場合によってはこれは復活するので、なくなることを心配しなくて済む。
ここは、まあ、分かりやすいところです。

3_3_2.『誠実』のバリエーションとしての『真実』『現実』

で、もっと根本的には、正直さに関する、『誠実』の価値観のバリエーションとしての、抽象的な『真実』の価値観や、具体的な『現実』の価値観がある。
これも、リソースやコストに関する、ある鉄の教訓を、我々に叩き込んでくれる。
つまり、「ない袖は振れぬ」というやつを。

社会が相当発達すると、信頼を担保として貸してくれる、「ないのに振れるマイナスの袖」という、借金の概念も生じる。
が、それは少なくとも『誠実』『公正』の結果である、最低限の『信頼』ありきの話だ。

もしくは、もっと根本的に、『不信』に基づく、相手の出方から予測されたパターンの了解ありきの話だ。
少なくとも、日本以外のかなり多くの国商取引は、相互の誠実さも公正取引も、初手では何ら信じてはいない。
相互の誠実さや公正取引は、不信に基づくゲーム理論的な相手の出方の予測ありきで、初めて成り立つことが多い。

まあ、いずれにせよ、要するに、かなり後の話なんですね

3_3_3.『神聖/堕落』のバリエーションとしての『美/醜』

また、これら以降では、綺麗事に関する、『神聖/堕落』の価値観のバリエーションとしての、『美/醜』の価値観の話が出て来る。
これは、人が欲しがるものと、追い出したがるものの、つまりはニーズを強烈に反映している。

我々はついうっかり忘れてしまうが、生じたものの間引きの理由として、
「周囲がそれを存続させる資源や能力を持たない」
のみならず、
「おぞましい何かの特質を持ち、周囲に存続を期待されない」
という話が、しばしば抜きがたく出て来る。

そこまでそれを意識しなくていい世界になっているから、今は本当にだいぶ「善くなってはいる」んですよ。

3_3_4.『権威/転覆』のバリエーションとしての『(国家以前の一般化された)生存権』

え? 「善くなってはいない」? 「悪くなった」? 「リソースとコストとニーズに悪く効いている」? 「場が『損』をする?」
はい、損得、出ました。
『美/醜』よりはるか後の価値観、特に『弱者救済』の価値観の意義を、『美/醜』に比べてゴミみたいなもんだと思ってないと、出て来ないよね。その感想。

じゃあ弱者救済以前の理想状態とやらに戻ってやり直してみるか?
多分、あまりのスパルタンな社会制度に適応出来なくて、外ならぬ自分が弱者になるだろうし、救済がないんだから周囲の都合で速攻で死ぬぞ。それでいいのか? 俺は良くないが…

***

人の「生きる強さ」とやらは、生活能力稼得能力の強さである以上に、実質的には
「周囲から生きていてよいと認められる価値」
でしかない
ことの方が多い。
これを、個人的には、『(国家以前の一般化された)生存権』と、括弧入りで呼んでいる。
地位に関する、『権威/転覆』の価値観のバリエーションだ。

生活能力稼得能力の問題は、あくまでその枠内の、その上での話に過ぎない。
「周囲が生活能力や稼得能力を持たない人を、たまたま生かしておけないか、生かしておけるか」。
その基準で、前者か後者か、それだけだ。偶然的な話だ。何の必然性もない。

はい?
「前者が当然ではないか」?
それ、端的に、嘘じゃん。
生活能力や稼得能力を練り上げたある種の宗教勢力はともかく、そうでない場合の宗教戦力が、叩き潰されるどころか、かなり広範な支配力を持ってるの、どういう理屈で整合性取ってるんだ?

そして、人の
「生きる強さ」
とやら、実質的には
「周囲から生きていてよいと認められる価値」
は、たいてい、
「周囲が干し殺したくなるほど、おぞましいと見なされていない」
というだけのことに過ぎない。
つまりは、「干し殺したい」というニーズが、たまたまない。という、偶然に左右された、ハッピーな話に過ぎない。

『美/醜』の話に戻って来た。
実は、『(国家以前の一般化された)生存権』は、しばしば、『美/醜』間引かれていないし、見捨てられてもいない。というところから成り立っていく。
そういう話に、踏み込んでいかざるを得ない。

***

これ、相当えげつない話だ。
少なくとも、今の練り上がった人権思想では、基本的には容認されない話だろう。
だが、これが大昔に通用していた価値観であり、実際にその通りに為される規範でもあった訳だ。

比較的最近では、ドイツもそうだった(ヘッダ画像はナチス『生きるに値しない命(Lebensunwertes Leben)』スローガンの書かれた、安楽死プログラムプロパガンダポスターですね)。
優生保護法のあった頃の日本も、ふつうにそうだった。
下手すると今ですらそういう国はあると聞く。

これは、恐ろしい話だ。
「追放したり干し殺したりするのが当然の権利だと思うな」
という、練り上がった人権思想は、歴史的にもまあ新しい産物だ。そこはそうだ。
で、それ以前の姿勢をナチュラルに取ってしまう人、かなり広範にいます。
人権思想が、現に練り上がった後でも。

だが、愚劣な話だ。
練り上がったのは、それを作らなければヤバかったからだ。
それは、ないと、ヤバイものなんだ。
「要らない」?
現にヤバい目に遭っている人たち「じゃない」人たちが、ここで何言っても、何の意味もないでしょう。直接の当事者じゃあないんだから。

3_3_5.『所有』『効率』再掲(役所の話)

おっと。
「間接的には税制で影響があるから困る」?

ええと。
そもそも
「撤退戦をし続けていれば、反攻作戦のやり方が不可能になっても、いつか勝てる」
みたいなトンチキを、何でこんなに信じ込んでいる人が多いんでしょうか。

減税は、ただの、仕事組織を焼いて、本来投入すべきコストの入力を、丸ごと金に換える、焼畑農業に過ぎない。
それを繰り返すと、仕事組織にしか回せない仕事はどんどん回らなくなり、どんどんインフラや市場は消滅していく。
社会は、どんどん、出来ることがなくなっていく。貧乏になっていく。

***

え?
「仕事組織に無駄なところがあるから、焼かれて金に換えられてもしょうがないじゃん」?

ううん。
この意見、無駄じゃない必要な仕事組織を、スナック感覚でメチャクチャ焼くやつですよ。
現に、焼かれている。

このCOVID-19の最中に、人手と金が足りない保健所から、人手と金を節約したい、出来れば保健所を焼きたい、偉い人達、結構いらっしゃるようなのですよね。
まあ、分かりますよ。節約は、『浪費/非効率』の観点からすれば、断固としてだ。
だが、「仕事組織に無駄なところがあるから、焼かれて金に換えられてもしょうがないじゃん」という理屈で、現に仕事を妨害されているのは、仕事組織として到底歓迎しがたい訳です。
保健所の仕事を潰すための口実に使われることが明らかなお題目を、この上まだ保健所の仕事を潰すことが分かっていて、つまり「意図して」「わざと」やるの、何なんだ。という。
外形的には「ああ、「意図して」「わざと」やっておられるのだなあ」という意味合いに、そりゃあ、なってしまいます。当たり前ですが。

「保健所は無駄な不正なことをしている」
とまで、しかも電話でわざわざ仰られた方が、1人いらっしゃいました。
厳しい話ですが、ということは、わざわざ電話してこないが、「保健所が無駄な不正なことをしている」と思っている人、もっと膨大にいらっしゃる。そう考えるべきです。

仕事はもちろんします。そりゃあ当たり前です。やらなきゃ、大勢の市民の方々が死ぬほど困るし、最悪死ぬんだから。
ですが、この絶望感は、おそらく、一生、胸に焼き付けて生きていくことになるでしょう。

公僕は公の僕(しもべ)だ。
ただの公の僕(しもべ)のやることは、ただ一つ。仕事だ。

***

さらには、もっと恐ろしい罠がある。
ある種の困難な仕事は、技能の熟練した仕事組織には、金をちゃんと積めば可能である。
が、熟練していない仕事組織には、金をどんだけ積んでも、その仕事は可能にならない。
というか、そういう仕組みだから、ほっとくと、金を無限に積ませて最終的に持ち逃げする、詐欺の格好の温床になる。

後者二つのケースが発生している時点で、それは「高コスト」としか言えない。
「低コストを志向したのに、高コストが発生しまくっている」?
裏目に出ている。最悪の失敗パターンだ。
この時点でもうお話は終わりになってしまう。
(なってない、と思っている人、困る)

***

この手の、困難な仕事、世の中にはたくさんある。
しばしば、それらは、必要不可欠な仕事だったりする。
コスト削減のためにリソースに換金したら、出来なくなって、コストが爆上げになって、ついに意図通りには出来上がらなかった。
などという話は、笑い話では済まされない訳だ。

「政策や、それをやる仕事組織を削減すれば、節約できる、つまりは低コストになるから、それでいいのだ。
それに比べれば、出来ないことが増えてもいいのだ。
そうやって、必要な政策だけが残って、政策は良くなる」?

よく分からない。
熟練した仕事組織がいなければ、必要な政策を、実現することすら、しばしば不可能になる。
こんなの、困る。
公のためにやれた仕事が出来なくなるのを、公のための仕事組織が、歓迎なんか、出来る訳がないじゃないですか。

***

霞ヶ関の田畑から自動的に生えてくる訳じゃない。
日本中の家計や企業などの経済主体から、少しずつ税を調達して、ドラゴンボールで言うところの元気玉みたいなデカイ予算にするんです。

必要かどうかというニーズの話はもちろん大事だが、調達ルート削減を通じて封鎖されたら、どこの産業もふつうは狭くなるから、利用できるリソースは枯渇するのです。
ニーズがあろうが、リソースは無からは生えてこないから、不可能になるのです。

さらには、「困難で必要な仕事を、比較的容易にする、熟練した仕事組織」が、仕事にかかるコストをかなり低いレベルで下げてくれていた訳です。
低コストなシステムも、リソースの重要な部分だ。と考えて下さい。

潤沢なリソースのある産業と、熟練によって低コストになったシステムが必要な時に、それを全部換金するの、端的に、損なんですよ。
タコが自分の足を食うより酷いことになりますよ。
「融通できる貨幣が今欲しいんだ。他のことはどうでもいい」?
使える貨幣が回って、買える財やサービスが回っていれば、こんなことにはならないでしょう。
なのに、まるで、その逆を志向しているようにしか見えない。
そりゃあ、どんどん閉塞していって、焦燥感だけが募って、やがて全部詰みますよ。ペンペン草も生えない。

***

減税は、ただの、仕事組織を焼いて、本来投入すべきコストの入力を、丸ごと金に換える、焼畑農業に過ぎない。そう書いた。

景気の回るような政策をぶちあげる政治家をおだてて、そういう政治家を増やして、党を作らせて、政権と交渉させて、財務省を動かすよう仕向けて、予算や法を整えさせて、景気をよくさせる。
そうして、幅広く柔軟な政策が可能であるような税を確保する。同時に、市場の景気が良いので、税によるダメージは相対的に減っている。これを両立させる。
これが、期待される正道だと思うのですね。

税を減らして仕事組織を解体して節約すればいい。という考えは、基本的には幅広く柔軟な政策を削減して硬直化させる方向に効くものだ。
これも繰り返すが、仕事組織にしか回せない仕事はどんどん回らなくなり、どんどんインフラや市場は消滅していく。
社会は、どんどん、出来ることがなくなっていく。貧乏になっていく。

しかも、これの目的は、「社会をもうちょっと潤そう」という、良かれと思ってのことだ。
手段がそれに完全に不適合であるだけで。
そういうの、本当に不毛な成り行きですよ。
「そんなバカな」?
「そんなつもりでやっていたのではない」?

皆さんの望む目的に、皆さんの望む手段が、本当に適合するか、そこは考えて、その上で選挙で政治家の先生に投票する。
これらが適合しない、デタラメ吹いてる政治家の先生には、申し訳ないが、投票できない。
そういうことをしてきたんじゃなかったんですか。
そして、それは、たったそれだけの、大して難しいとも言えないことなんじゃないんですか。
「そういうつもりで投票をしていなかった」?
いや、そのつもりで投票して欲しいんですよ。

だって、そういうことのためにこそ、選挙権は、かなり幅広い市民の皆様に、歴史的にも開かれて来たんだから…

***

私は、今のところ保健所の人間なので、保健所が「困難で必要な仕事を、比較的容易にする、熟練した仕事組織」だと言い張るし、現に言い張れる。

んで、「困難で必要な仕事を、比較的容易にする、熟練した仕事組織」は、解体して換金したら、短期的には目に見えて節約できるのだろうな。というのも想像はできる。
多大な出力を、中くらいの入力で可能にする組織から、中くらいの入力を丸ごと奪うんだから、そりゃ目に見えて節約できるわな。

「仕事組織に無駄なところがあるから、焼かれて金に換えられてもしょうがないじゃん」
という、
「困難で必要な仕事を、比較的容易にする、熟練した仕事組織。
それを、解体して換金して、短期的には目に見えるほどに節約する。
そのために、現に使われてる、お題目」

を、保健所のみならず、潰される仕事組織の側は、納得して受け入れる訳にはいかないんですよ。当たり前だけど。

そういう組織が潰されて、職員の我々が食い詰めるのは、もちろん嫌ですよ。そこら辺は、他の企業と、基本的には変わらない。
だが、それより、公僕が、公益のための仕事を、短期的な節約のために、公から消滅させられるのを、黙って見ているのって、本当の本当にやりたくないことなんです。

本当に、何のために働いてきたんだ。
それは、何らかの意味で役に立ち、何らかのために必要だったのではないのか。
なかったら困るような、そういう何かではないのか。
そこの説明からして、そもそも嘘だったのだ、と今更抜け抜けと言い抜けてくれるのか?
ふざけるなと言いたい。

だから、お願いしますよ。勘弁して下さいよ。
社会の自殺なんですよ。ヤバイんですよ。そういうのは。

3_3_6.そんな訳で、かなり基本的な価値観からして、リソース、コスト、ニーズ、そして損得の話は、避けられない

そんな訳で(どんな訳だ)、かなり基本的な価値観からして、リソース、コスト、ニーズ、そして損得の話は、避けられない。
リソース、コスト、ニーズ、そして損得の上で、何らかの問題があるものは、避けた方がいい。
そういう話が、「こうした方がいい」という価値判断において、ほぼどこでもある。
そこは、「基本的には」「そうした方がいい」ものだ。

3_3_7.とは言え、目的手段関係の「基本」から外れて、強まった目利きには、何かしら捨てがたきものがある

とはいえ。
せっかくの目利きを、バッサリ捨てたくない。というか、捨てがたい。惜しい。もったいない。
そう思う気持ちが、俺にもある。

この、もったいない気持ちの正体は、一体何か。
という話を、次回、やっていきたいと思います。

(続く)

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