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昼月まひる
2023年8月27日 07:58
その月曜の朝、私はいつものように遅刻気味だった。もうそんなに寒くはない、まだ暑くもない季節。急げば5分の道のりを、ヒールでぎりぎりいけるくらいの走りっぷりで駅に向かっていた。 ちょうど、駅まであと一直線となる角のマンションを曲がったところだった。私の行く先、ほんの3メートルほど前に、落ちてきたのだ。 ダン!!!!!と、大きな音を立てて。男の人が。「え……」 颯爽と細身のスーツを身
2023年6月6日 18:41
やっぱり、あると思う。 ホルモンに関わる投薬の影響。個人差?気のせい?リスクよりもベネフィット?なんでもいいけど、絶望はする。 これから数か月、ただひたすらに連続採卵をしていくのだとして。およそ月の半分は、あのモヤモヤと付き合っていくことになるんじゃないの?もしかして。「弁当ってさ、ちょっとワクワクしない?」 薄曇りの昼下がり。いつもの草むらを熱心に嗅いでまわる犬にリードを引かれ
2023年4月5日 18:44
女の子、だった。 流産手術の後、絨毛検査でわかったのは、今回の流産がやはり受精卵の染色体異常によるものだったということ。そして性別だった。何番目の染色体がトリソミーだったかとかなんとかは、もう覚えていない。 2度目に流産したのは男の子で、今回の3度目は女の子で。1度目は検査ができなかった。 性別を知らされると、とたんに胸が詰まるような実感が押し寄せてくる。それでもやっぱり、知りたか
2022年4月23日 01:24
まんちゃん。この子に、名前がついた。ついてしまったと言うべきか。「お腹にいるときに呼ぶための胎児ネーム? そりゃあ、まんちゃんでしょう」 夫が勝手に言い出したのを、最初は「なんかヤダそれ」と笑っていたのに。妙にインパクトがあって、それ以外思いつく間もなかった。 2022年3月26日。妊娠判定日は“今年最強の日”だった。風水だか暦的なものだか、実際のところなんだかよくわからないけれど。
2022年4月5日 01:21
まず、謝らなければならない。そのとき、血の気が引くほど動揺してしまったことを。手放しに喜ぶ気持ちになれなかったことを。「可能性は、まだ、あるんでしょうか……」 医師に向けた私の言葉は、語尾が少し震えてしまった。「hcgが21.2出ているので、可能性はありますよ。この表で言うと、ここになります。5人にひとりは、この数値でも出産に至っているわけですから」 目の前の紙の表に書かれている
2022年3月21日 12:17
昨夜遅くまで降り続けた雨の余韻をそこかしこに残す街を、真正面からの太陽がさやかに照らし出している。いつものクリニックへ向かう助手席で思わずスマホを取り出して、カシャーンカシャーンとその光景を撮ってみた。 2022年3月19日。今日という日は、記念すべき日になるだろうか――密かにそんなことを思いながら。「ちょっと、何撮ってんの」 運転席の夫が怪訝な顔をしてこちらを見やる。「え、いや
2022年1月11日 20:29
「クウホウ、ということですか」「そうですね。今回の所見からすると……クウホウ、になります」 医師との会話は、正直それくらいしか覚えていない。流産からもうすぐ4か月、ようやく挑んだ採卵手術を終えての診察室。 長々といろいろなことを聞いた気がするけれど、最後はこれまで何度も聞いた「次回、生理3日目に来てください」で締めくくられた。結局、得られた情報もその程度だ。今できることはほとんど何もな
2021年11月21日 21:30
心も体も健康でエネルギーに満ちあふれているときじゃないと、悲劇なんて書けないものだ。ある人にそう言われたことがある。 逆に、人はつらいときにこそ喜劇を書くんじゃないか。そのとき彼女はそう続けたけれど、わかったような、わからないような。でも最近になって、ようやくその意味がわかった気もしている。 表層に出てくる言動とその奥底にくすぶっているもの、それが時々まったく違って、ちぐはぐなのも、どこ
2021年11月6日 08:39
わが家には、猫と犬がいる。男女を女男とは言わないみたいに、犬猫を猫犬と言うと変な気がするのは、やっぱり犬のほうが人間界に根づいた相棒として第一党的なイメージがあるからだろうか。うちの場合は、猫が先住民だ。犬はあとからやってきた。「犬が飼えるような大人になりたいって、昔から思ってたんだ」 夫は私の夫になる前、よくそんなことを言っていた。「自分の子どもは、双子なんじゃないかって気がする」
2021年10月24日 21:41
ホルモンのバランス。よく言うやつ。私の中で日々起こっている根拠のない浮き沈みは、恐らくそこにトリガーがある。そんなふうに思い出したのは、ごく最近のことだ。 人の体に100種類以上あるホルモン。その中でも卵胞期に増えるエストロゲンと、排卵した後にぐんと上がるプロゲステロン、いわゆる2つの女性ホルモンの動きには、もはや抗いようのないところがある。 ことあるごとに血液検査をされる不妊治療下、そ
2021年8月24日 02:26
宣告は突然だった。少なくとも、私の体感としては。 医師たちはきっとこのことを予期して、それができるだけ突然にならないようにと何度も予防線を張ってきたのだろう。「うまくいく確率は33.3%」「かなり成長が遅い」「子宮外妊娠かもしれない」「これが赤ちゃんを包む胎嚢だとしたら、形がいびつ」「見える位置もおかしい」「一番考えられるストーリーは、このまま流産すること」云々。 それでもやっぱり、
2021年7月27日 19:45
今日、「胎嚢」という赤ちゃんを包む袋のようなものが子宮の中に見えたら、私たち夫婦の希望は、また少しだけ前進することになる。 着床を確認してから10日、運命の分かれ道になるかもしれない検診日。 この7年間で一度も経験できなかった、正確に言うと血液検査の数値的に「かすりはしたかも」のときが1回だけあったのだけれど、しっかり受精卵が子宮に着床したと「妊娠」の陽性判定がもらえたのは初めてのことだ
2021年7月23日 19:44
「12時40分から飛ぶらしいよ、ブルーインパルス」 ベランダの掃き出し窓をがらりと開け、洗濯ものを干していた私に夫が言った。「えー、どっち? どっちの方向?」「たぶん、あっちかな」「見えるかなぁ」 ふたりで空を見やる。濃い青色をした夏空は、雲ひとつないとはいかずに、ところどころにわた雲が浮かんでいた。 今日は東京オリンピックの開会式だ。夜8時からの式を前に、ブルーインパルス
2021年7月21日 19:19
腹の奥底のほうが、ズキリとした気がする。 嘘だ。たぶん、いつもの思い違い。妊娠の可能性などまったくない、なんでもない日にもときどき起こってきた違和感。妊活であろうが、不妊治療であろうが、自分の子宮を常に気にしてしまう生活をしたことがある人なら、たぶん経験者は多い。 不妊治療を始めて7年目となる今年、奇しくも大波乱の東京オリンピックが開かれようとしているその直前に、私は初めて着床に至った。