DAY30. その闇をも抱くもの
その月曜の朝、私はいつものように遅刻気味だった。もうそんなに寒くはない、まだ暑くもない季節。急げば5分の道のりを、ヒールでぎりぎりいけるくらいの走りっぷりで駅に向かっていた。
ちょうど、駅まであと一直線となる角のマンションを曲がったところだった。私の行く先、ほんの3メートルほど前に、落ちてきたのだ。
ダン!!!!!と、大きな音を立てて。男の人が。
「え……」
颯爽と細身のスーツを身にまとったその若い男は、まるでどこかの浮気現場から逃走してきたかのようなシュッとした風情で片膝立ちに着地し、その場にぱたりと倒れ込んだ。靴下だけで、靴を履いていない。
「いってぇ……」
そうひと言だけ発して、静かになる。動かない。
「だ、大丈夫……ですか?」
なに。どういうこと。全力のヒールダッシュに突然ブレーキをかけられて、私は頭が混乱する。恐る恐る近づこうとしたその背後から、さっと車の影がよぎった。
「へ、ひぁ……!?!?」
ほとんど声にならないまま声を発し、私が手を伸ばしたその先で、車はぐにゃりと男を轢いた。とたんにキュキューーッ!とブレーキが踏まれ、バンと開かれたドアから狼狽した中年男が降りてくる。
背後にも息をのむ気配を感じてふり返ると、トイプードルを抱えた上品なマダムと目が合った。
「私、犬がいたから止められなくて……!」
マダムにそう言われたのを覚えている。
肩にかけたバッグから携帯を取り出し、「えっと、119番? 110番も??」番号を押す指が震えた。そして、救急車が来て。彼が搬送されるのを見送ったあとも、警察の現場検証やら事情聴取やら、いろいろあった。
ようやく会社に連絡をし、遅刻の旨を知らせたときにはすっかり始業時刻の9時を過ぎていて。電話口の先輩にそのいきさつを伝えると、彼女は驚き、笑い話のように言ったのだった。
「あなたそれ、彼の最期の言葉を聞いたってことになるんじゃない?」
*
先週、テレビ画面の中で大物芸人につっこまれながらスタジオの笑いをとり、若く美しい笑顔をふりまいていたタレントが、自らその人生を終えてしまった。
そのニュースに胸がひゅっとなり、「またか」と思う自分がいた。最近、あまりに多い。いまだくすぶっているこのコロナ禍は、きっと無関係ではないのだろう。
またたく間にネット上は騒然となり、最初の一報から数時間後には、「ホルモン注射をしていたからだ」「ホルモンバランスが崩れていたらしい」と勝手な憶測が飛び交った。およそ何の医学的知識もないだろう者たちも、一緒になって騒ぎ始める。
ホルモンに関わる治療が身近な不妊治療をしている身として、ますます居たたまれない気持ちになった。彼の、何がわかるのだろう。もちろん私にだってわからない。
しばらく遠ざかっていた死の影が、また忍び寄ってくるのを感じて、20年ほど前に出合った彼を思い出す。
今頃、どうしているのだろうか。
あれから私は、朝からマンション前を掃除していた大家らしき初老の男に思い切って尋ね、私の目の前に落ちてきた男が一命をとりとめたことを知ったのだった。
住んでいた部屋の位置とは違ったらしいから、おそらくその小洒落た低層マンションの屋上から、私が見たまんま、足から落ち、足を轢かれたことで、足の骨を折る大けがはしたものの、命に別状はなかったという。
それよりも問題は心のほうだよと、人の好さそうな大家は肩を落とした。
私も社名に聞き覚えのある、いわゆるエリートサラリーマンだった。顔もだいぶ男前の部類だった記憶がある。その華やかさの裏で、誰も分け入る隙がなかった彼の心の暗がりなど、いち大家には、ましてや通りがかりの私には、到底うかがい知れるものではない。
それでも彼の無事を大家に聞くまで、私はその角を曲がるたびに胸がひんやりとしたのだ。今日こそは花束が置いてあるのではないかと目を薄めて歩き、なんとも言えない心持ちがして、無意識に思考がその死に寄り沿っていく。気を抜けば、自分もそこへ引きずり込まれそうになった。
よく、そういった場所には怨念が残るとか言うけれど。それは恐らく幽霊とか怪異だとかの類ではなく、こちらが「あの場所は……」と思い出すことで、そこに見えないものがふつふつと醸成されていくのだ。誰かが思い出すことで、そこが不吉な、そこはかとなく死を感じさせる場になっていく。
しかし実家の母は、電話口であっけらかんと言い放った。
「それ、一歩間違えたら頭の上に落ちてきたんじゃない? やっぱり、あんたは運がいいねぇ!」
彼女はまるで宝くじにでも当たったかのようなテンションで私の話を受けとめ、「私もね、このあいだ銀行にお父さんといたら、なんと強盗に出くわしたのよ!」なんて話までし始める。
最後は、「こんなことってあるんだねぇ。親子そろって助かるなんて、本当に運がいいわ!」と締めくくられた。
*
……死ねばいいのに、私とか。
久しぶりに頭のなかでそう毒づいている自分に気がついて、ひとり苦笑する。朝の5時半すぎ。
シャワシャワと木々の間から霧雨のように降ってくるクマゼミやアブラゼミの声、その奥からホーホーホホーと存在感を醸し出すキジバトらしき声を聴きながら、朝露が光る湿った草の上を、ザッザッザッと犬に引かれて歩いていく。
朝方は、どの音もいつもよりくっきりと鮮明な響きで耳に入ってくる。昨晩、0時近くなってもなおゆだるようだった世界は、夜を深めるにつれて徐々にその熱を冷ましていき、この時間帯の散歩を特別なものにしていた。
まだ長くのびた影のなかを犬と一緒に進んでいき、ときどき肌を刺す木洩れ日がはらんでいるその熱に、今日もまたきっと暑くなるのだろうという予感をする。
「おはようございます」
朗らかな張りのある声のするほうに顔を向けると、こんな早朝の空気が似合う犬連れのマダムがいて。私も、「おはようございます」と心からの笑顔を向けた。
「きれいなわんちゃんねぇ。ボーダーコリーかしら?」
「はい。トイプーちゃんも可愛いですね!」
反射的に手を差し伸べると、「びしょ濡れだけれど」と忠告をされて、よく見れば川遊びでもしてきたかのように、朝露ですっかり水浸しになっている。フワフワのはずの毛がべっとりとその小さな体にはりついていて、思わず手が止まった。そんな私を尻目に、犬たちは互いのうしろをクンクンと嗅ぎあい、挨拶を済ませる。
「では、またね。お散歩がんばっていってらっしゃい」
マダムに満面の笑顔を向けられた彼女は小首をかしげ、またずんずんと駅に向かって歩き出した。私もマダムのトイプードルに「じゃあね」と別れを告げて、彼女に従う。今日もまた、何本かの電車が過ぎ去るのを眺めに行くのだ。彼女の唯一の趣味につきあって。
早起きをしてこの特別な時間を謳歌する人たちは、皆どこか陽の気をまとっていて、どこか誇らしげで、互いに挨拶を交わす敷居が低い気がする。その空気にのまれて会釈を交わすうちに、私の敷居も下がっていく。
私ははたと、先ほど自分を呪う言葉を独りごちた原因について考える。すぐに思い当たるのは、つい昨日のことだ。
「少々お待ちください」
どこかフレッシュな新入社員感の漂う電話口の声に、私は「はい」と神妙に応答し、スマホを握りしめた。たぶん、それから1分もしなかったと思う。
「……番の患者さんですね。昨日1つ、採卵できた卵ですが」
「はい」
「異常受精のため、破棄となりました」
「え……」
かろうじて「そうですか」と小さく言い、ぐっと唾をのみこんで二の句を継いだ。
「あの、それは、どういう」
「はい?」
「えっと、卵はちゃんと、成熟卵、だったんですよね」
「そうですね。成熟卵でした」
「何か、ほかに悪かった所見など……あったのでしょうか。精子も、顕微授精には問題なかったんですよね?」
「少々、お待ちください」
そこから2~3分、電話口で固唾をのみ。ほかに何か聞けることはないのかと自問自答した。このクリニックに転院して、初めて採れた卵で、初めての受精確認電話。前院はアプリでの通知だった。
彼女がまた電話口に出てきて言う。
「ご質問いただいた件ですが」
「はい」
「卵子のせいなのか、精子のせいなのかは、わからない、ということです」
「……そう、ですか」
「はい」
ラボの先輩の言葉なのか、まるで伝聞のようにして語られるその答えに、これ以上何も聞ける情報などないことを悟って脱力する。私はどうにか礼だけを言い、電話を切ったのだった。
3度目の流産の後に再開した採卵は、3回連続で空胞となり、4度目にしてようやく1つの卵子が採れたものの。その翌日、夫が早朝から名古屋に出張へ出かけた日に、ひとり異常受精を告げられて終わったのだった。
*
自分は、いったい何のために生きているのだろう。そんな陳腐な考えが頭をよぎるたびに、ただ目の前にある人生をできるだけ楽しんでやろうと逞しく生きる夫の存在に引き戻されている気がする。
「だってさ、あと一生のうちに何回飯が食えるのかって話があるじゃん」
そう言って、夫は一食一食をひどく大切にする。ひとりになると、すぐに「栄養だけ採れればいいだろう」となり、まるで冷蔵庫の食材の寄せ集めのような食事をとる私は、よく呆れられていた。
不妊治療を始めて1年、2年、3年どころか、もう9年。年を追うごとに私の行動範囲は狭まっていき、コロナでとどめを刺されてしまったこの3年半。それでも確かに、ここのところは徐々に行動範囲を広げていた。それも夫の影響だ。
「ごめん、俺のせいだね」
異常受精だったことを告げると、夫は開口一番にそう言って目を伏せた。
「どっちのせいとか、ないよ。現に培養士さんもそう言ってたし」
そう言いながら、私は採卵日の朝のことを思い出す。夫はその日、明け方の4時すぎに帰ってきた。前日に会社の上司らと野球を観に行き、ベイスターズの勝利に沸き、ヒーローインタビュー後の遅い時間から飲みに行って、そのまんま。
前夜の深酒とは言え、たった一日でたいして成績は変わらないだろうと冷静に思いつつ、さすがに私も頭に血がのぼった。あまり寝つけずに何度も起き、薄く朝日が差し込んできた頃になってようやくリビングのソファで眠る夫を見つけたときには、閉口した。
私は、採卵前の繊細な卵に少しでもストレスをかけるものかと静かに深呼吸をして、犬と散歩に出る。自分の支度をしながら、7時に家が出られるくらいを見計らって「お風呂くらい入ったら?」と、夫をゆり起こした。
いつもは夫が運転する車で向かっていた採卵に、その日は夫婦でほとんど会話も交わすことなく、電車に乗って向かったのだった。
なんだかんだ言っても、これまでそんなことは一度もなかった。確かにいまやダメ元で進めている治療は、それくらいのスタンスで臨むくらいでないとやっていられないのかも知れない。
でも、あんな険悪な日に排卵したとして、自然に受精が成立する夫婦はきっと少ないだろう。それよりは採卵手術をして顕微授精をさせるほうがずっと高確率だろうと、ひとり馬鹿なことを考えた。
「もう、限界なのかも」
今回の異常受精への感想を、私は素直に言った。これは夫の深酒云々の話ではなく、私の卵子と夫の精子が持つポテンシャルの問題。それは自明だ。
「そうなのかも知れないけど……」
夫は「もう飲みすぎません、絶対!」と手を合わせた。そして私の捨て鉢な言い草にもひるまなかった。
「今年一年は、検査に出すところまではやってみようよ」
夫の言う「検査」とは、おそらくPGT-A検査のことで。まずは私の卵子が1つでも採れ、それが夫の精子と無事に正常受精をし、それから5日ほどで胚盤胞になるまで何ごともなくすくすく育ち、そこで初めてスタートラインに立てる。
そしてその検査で移植が可能な胚が得られる確率は、今までの経緯からしてほぼ奇跡に等しい。今の私には、ただただ途方もなかった。
「君ばかりが大変なのは、わかってるけど」
「いや、そういう問題じゃなくって」
それだけ言うと目に涙がにじんできて、私は口をつぐむ。どうするべきなのか、どうしたいのかなんて、私にだってわかっていない。
それでも私は、社会で何かが起こるたびに想像をする。もしもわが家に、子どもが生まれてくれたなら。
その子が自分の人生を心から愛せるようになるには、いったい私に何ができるのだろう。できることがあるのなら、私に残る全エネルギーを注いだってしてみたいと思う。
そんなこと、実際はそう簡単ではないだろうけれど。どんなに難しくてもそうしたいから、私はこの治療を続けているのだ。
私はもっと、強くならなければならない。少なくとも自分のなかに巣食う闇など、気にもならないくらいに。
*
水曜に採卵をし、その週の土曜には、コロナ禍には一度もなかった久しぶりの海外出張に夫は慌ただしく出かけていった。その間にも夫は名古屋へ日帰り出張をしていたし、私もそれなりに忙しくしていて。ほとんど落ち込む時間もなく、私たちはまた日常へと戻っていった。
日曜になり、早朝に犬の散歩だけして呆けていたところへ夫からLINEが届く。
《フランクフルト、到着!》
そしてすぐ後に、1枚の写真も。
《月が凄かった》
〈これ、月なの?〉
暗闇の中に赤々と笠をかぶったような丸い光が浮かび、その反射が地表を幻想的に浮かび上がらせていて、これまで見たことのないような不思議な光景を織りなしていた。
《飛行機のなかが明るくなるから、なんだろう?と思って見たら、月が煌々と》
〈へえ。宇宙みたい〉
そんなやりとりをしてから、ふふ、と無音のリビングでひとり笑った。夫にはこれまで、冗談めかして何度も言ったことがある。
「今夜も月がきれいだねぇ!」
「ほんとだ、満月かな?」
「もうちょい、かなぁ?」
「明日くらいかな、昨日だったのかな」
「ねえ、わかってる? 『月がきれいですね』って、昔むかしに夏目漱石が訳した『I love you』だからね?」
もちろん夫は、そんな意味を微塵も込めてはいないだろうけれど。そうして私たちが何度も一緒に月を見上げて語ってきた歴史が、そこにはあるのだ。
「お土産にするものがあんまりなくて」と言っていたくせに、またいくつものお土産を持って帰ってきた夫に尋ねる。
「ねえ、あの月の写真。私のブログに載せてもいいかな?」
「ああ、いいけど……」
「なあに?」
「あれね、太陽だったかも」
「え。そうなの? 太陽なんて写真に撮れるものなの?」
「なんか、飛行機の窓がサングラスみたくなるやつだったっぽくて。月かと思ってたけど、もしかしたら」
「そっか……。まあ、いいや」
月でも、太陽でも。ふと目にしたきれいな月らしきものを、遠くにいる妻にも見せたいと思ってくれた。そのお気持ちだけ、こっそりいただいておきます。
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