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DAY14.  9回目のクリスマス


「クウホウ、ということですか」

「そうですね。今回の所見からすると……クウホウ、になります」

 医師との会話は、正直それくらいしか覚えていない。流産からもうすぐ4か月、ようやく挑んだ採卵手術を終えての診察室。

 長々といろいろなことを聞いた気がするけれど、最後はこれまで何度も聞いた「次回、生理3日目に来てください」で締めくくられた。結局、得られた情報もその程度だ。今できることはほとんど何もない。

 クウホウ。私の卵子が育っていたはずのところに、何も入っていなかった。何それ、女版のタマ無し的な言い草? 

 そもそもクウホウって、お祝いのときとかに空に向かってパーンて打つやつじゃないの?とか、思ったりしていたら。それは「空包」とか「空砲」で、今回のは「空胞」らしい。どうでもいいけど。

 生理3日目に血液検査をした後、内診台に上がること2回。経膣エコー越しには1つだけ、黒々とした卵胞らしきものが映っていた。

 その数ミリの成長に一喜一憂し、その中にあるはずの卵を思って「すくすく育てよ~」と見ていたもの。あれは一体、何だったのだろう。

   *

「はぁ…」

 つい、ため息が出る。なんだか頭の中が昔の一時停止画面みたいにブレブレに揺らいでいて、目の前の仕事がまったく進んでいない。

 気づけば資料の同じところを何度もくり返し読んでしまっているし、冬眠前の熊みたいな倦怠感にぬくぬくと包まれている。普段はあまりない頭痛までしていて。

 たぶん、あれのせいだろう。言われるがまま毎日飲んでいる小粒の薬。

 採卵手術後にクリニックで処方されたのは、12日分のプラノバール。いわゆる中用量ピルだった。前の周期に育った古い卵胞が次の周期にまで残ってしまうことで脳をバグらせる、遺残卵胞をなくす薬だという。

 もちろん、単にクウホウ・ショックでやる気が出ていないだけの可能性もある。でも、この調子の悪さが本当に薬のせいなのだとしたら。いち社会人には、けっこうな痛手だ。

 仕事が進まなければ、一生デスクに向かっている羽目になる。そして、また余計にかかるストレス。

 今の私がストレスをためたくない理由――それは、自分のためではなく、お腹の中の卵を想ってだったりする。イライラしないようにと思うことにさえイライラさせられる、ずぶずぶの泥沼。負のスパイラル。

 そしてもし、このため息を夫に聞かれでもしたら。夫は機嫌を損ねて聞くだろう。

「なに、はぁ…してるの?」

 運命共同体。相手のため息イコール自分への不満。現状への不満。そんなふうに感じてしまうのは、私も同じだ。たぶん、夫婦ってそういうもので。相手の機嫌が悪いと、こっちまでどっと疲れる。理由なんかは関係なく。

 逆に相手が何やら楽し気にしていると、ちょっとうれしくなったりする。「どうしたの、にこにこしちゃって?」などと、つい聞いてしまう。

 しかし、もうすぐクリスマスだというのに。私の機嫌を悪くしているらしき薬を飲み終わるのは、26日の予定だった。

 特にクリスチャンでもないけれど、その他大勢の日本人よろしく、イブの夜や25日くらいはチキンやケーキをつついて浮かれたい。クウホウで移植の予定もなくなってしまったのだから、もはや私にとっては飲むしかない安息日だ。

 

   *


 結婚して8年、もうすぐ9年。夫婦で財布は一応別々。でも結局、家計は一緒くたになっているし、買いたいときに買ってしまいがちな私たちは、もうクリスマスにプレゼントを贈りあうこともなくなっていた。

 でも、今から9年前のクリスマスに贈りあったものは、よく覚えている。

 当時、つきあってちょうど馴れあってきた頃。お金もあまりなかった私は、彼に3千円かそこらの鼻毛カッターを贈ったのだ。

「ふふ。この間、ちょっと欲しがっていたからね…」

 たいそうに包まれたラッピングをほどく彼を、半笑いで眺めていた私。

「何これ? エチケットカッターって…鼻毛か! 確かに欲しがってたわ!」

 ありがとうと笑ってくれた彼の反応に満足していたら、「はい」と彼からもプレゼントを手渡された。正直、意外だった。当時は彼もカツカツで、今年はないかなぁと普通に思っていたから。

 綺麗なグリーンのリボンがかかった純白の小さな小箱。「えーなんだろう?」と開けると、そこには2本の華奢なリングが収まっていた。パールのネックレスみたいな粒々がつらなった、ゴールドとホワイトゴールド。ヴァン クリーフ&アーペルのやつ。

「ん? んんん?」

「これは、まさか…」となる私に、彼はシンプルに「結婚してください」と、プロポーズをしたのだった。

 家のソファーで。私のおざなりな手料理と、買ってきたケーキを食べ散らかしたテーブルを前に。鼻毛カッターをもらったあとで。

「こういうのってさ、縁起的に2連で良いものだっけ?」「まさか、バツイチで2度目の結婚だから…?」とかなんとか茶化しながら、最高に笑ったクリスマス。そのテンションは今でもあまり変わらない。

 一度目の結婚で失敗した彼は、「君をしあわせにする!」などとは一切言わずに、「俺をしあわせしてもらうためだよ」と言ってのけた。

 当時彼は、私のまとう「空気」が好きなんだと言っていて、その言い草を私も気に入っていた。容姿が良いとかやさしいだとかいうよりも、グッときた。

 そんなことを言う彼を、私も実に好きだった。もちろん今でも、過去形ではないのだけれど。長い年月を経て、おいそれとそんなことを言いあったりはできなくなっている。

 結婚当初、夫の実家で「子どもは欲しいよね」と、まだ気軽に話していた頃。夫がぽろりと義父母に向かって言ったのも、やはりグッときたのを覚えている。

「だってさ。この娘の子どもだったら、きっとしあわせそうじゃない?」

 両親の前で、「彼女、すごく愛情深いと思うんだ」なんて、恥ずかしげもなく言う夫だった。それを聞いた義母も目を細めて、「本当だねぇ。あんたも、しあわせだね」などと言っていて。今ふり返ると、なんてキラキラした時間だったのだろう。

 最近は、もうあのときほど気軽に自分たちの子づくりの話など義父母にできないと思う。向こうから聞かれることもない。待望されていたのは知っている。完全に、こちら側の問題だ。

 今でもことあるごとに、LINEで「うちの息子は大変でしょう、いつもありがとうね」と労いの言葉をくれる義母。結婚当初、私は彼女に伝えたことがある。「あなたの息子は、私が今までつきあってきた中で唯一、尊敬できる男なんですよ」と。涙するほどよろこばれてしまって、恐縮したけれど。

 でも、あれは本心だったのだ。紆余曲折はあったものの、やはり私の目に狂いはなかったと今でも思う。

 

   *


 ピルを飲みながら迎えた、9年目のクリスマス。

 何かと仕事がたまりがちな年末進行のこの時期。1年目には、本物の生の木を買って2人で賑やかなクリスマスツリーに仕立てた。クリスマスの装いとしては、あれがピークだ。今年はとうとう、置き物ひとつ飾らずに迎えてしまった。

 もしここに、子どもがいたら。クリスマスへの気合いの入れ方もだいぶ違っていただろうか。今ではそんな光景を想像することさえ、できなくなっている。

 それでもなんとか年内の仕事をおおかた終わらせて、クリスマスらしき料理を仕込んだ。足りないものをスーパーへ買い足しに行ったりしながら、24日のイブ、25日とつくっては食べ、飲み、つくっては食べ、飲み。

 ツリーどころか、プレゼントさえなかったクリスマス。でも私は、これまでで一番おいしく骨付きもも肉のローストチキンを焼き上げた気がするし、いつもより洒落たサラダや、いかにもクリスマスっぽいブイヤベースやらだけは用意をした。夫婦で犬の散歩がてら、お気に入りの店でホールのクリスマスケーキも買ってきた。

 2人して、とにかくお腹パンパンにおいしいものを詰め込んだ2夜。しあわせだった。間違いなく。ため息をつく暇もないほどに。

「ねぇ、子どもってさ」

 私は夫に、一人でぐるぐる考えていたことを聞いてみた。

「みんな、なんで欲しくなるんだろうね…?」

「そんなの」

 夫は少し怪訝な顔をして言った。

「本能的なものなんじゃないの? しょせん、人間も動物なんだから」

 ふむ。嫌な質問だよなぁとは思いつつ、私はたたみかける。

「じゃあさ、自分はなんで子どもが欲しいんだと思う? 自分ごととして考えると、ちょっとわからなくなってきたりしない?」

 夫は、苛立ちを隠さず言った。

「それを考える必要があるのかどうかも、わかんなくない? なんでも、何でなんででは片付けられないというかさ」

 私は、昔から何でなんでとうるさい子どもだったらしい。この期に及んでも、まだそのくせが抜けていないのだろう。

「…確かにね。理由がないといけないことじゃないよね」

「理由がないとできないことなんだったら、しなきゃいいし」

 ぴしゃりと言われてしまって、少し反省する。普通なら、こんなことを考える間もなく、ただただ2人のしあわせな時間を過ごして終わるものなのだ、妊活なんて。今年のクリスマスみたいに。

「でもさ」

 いつもの調子に戻った夫が、つけ足しみたいに言った。

「たまに思うのは…きっと、俺のほうが先に死ぬじゃない?」

  2人の間でもう定番になっているこのやりとりに、私は笑って定番の返事をした。

「そうね。きっと私のほうがだいぶ長く生きるね」

 でも、そのあとの返しに不意を突かれる。

「そのときにさ。俺は、最後まで誰かと一緒にいられるけどさ。俺が死んだあと、君がどういう人と出会うかわからないけど…。なんか、子どもがいなかったら、そういうことになるのかなっていうのも…考えるよね、最近は」

「え…」

 思いがけず、私の行く末を想う言葉を聞いてしまい。不覚にも、目が潤んだ。なんなら、1粒2粒、こぼれ落ちてた。でも私は、気づかれないようにそっと深呼吸をする。そして、「その発想はなかったな」などと憎まれ口をたたいた。

 正直、そんなことは私にとって、子どもを欲する理由になんて全然ならない。ただ、また夫にグッときてしまっただけだ。

 でも、もしかしたら。私の理由は、あなたと、あなたの子と、クリスマスに部屋を思いきり飾り立てて、大きなケーキを囲んで笑いあいたい。そんな、もっと単純な話なのかもと、ふと思った。

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