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世界の音楽は、そのまま私達の世界とこの地球全体を反映している。韓国、日本、中国、フランス、イタリア、ラテンアメリカを見てみた結果

いままできいたことがなかった、フランスの音楽に感動した

フランスの音楽を、昨日まで聞いたことがなかった。フランス人のお友達ができたので、お勧めの曲を聞いてみると、これを勧められた。私の指定は、女性がひとりで歌っているということだった。

Pomme - anxiété

いままで聞いたことのない音楽に感動した。KPOPの明るい音楽、JPOPの恨み節のような音楽、イタリアの元気が出るような音楽、そのどれとも違う。

こんな音楽があるのか、と思った。

おとなの、洗練された、お洒落な服を着ていそうな、それでいてなんかさみしくて悲しそうな、でもなんか自立していてかっこよくて…。

フランス語を学ぶきっかけ

なお、私はフランス語が分からない。イタリア語が分かるので、読んで内容を理解することはできても、リスニングはまったく無理だ。フランス語はリエゾンが特徴的だ。だから、歌っているような、そんな陽気さがある。ただそれはリスニングにとっては障壁でしかない。

そのお友達はフランス語のネイティブスピーカーなので、いつかそのひととフランス語で話してみたい。そして、私自身、彼女の歌を理解できるようになりたい。

だから、時間があるときにフランス語をもっと本気でやりたいと思うようになった。

KPOPと韓国語

韓国語もわからないが、親切なKPOP好きな日本人がよく字幕動画を作ってくれる。だから、日本語で理解できる部分が多い。あの手の動画は要は他人の曲を使っているので、収益はその歌手に入るため、いくら頑張って動画をつくってもYouTubeの収益化基準により自分には1円も入ってこない場合が大半だから、完全なボランティア活動だ。だからこそすごいと思う。

K-POPアイドルの実力主義

KPOPは「推し」とか「ダンス」とか「ビジュアル」とか、純粋に歌だけを楽しみたい私にとっては余計な部分が多い。もちろん、圧倒的な実力社会で、勝ち残るためにはオールマイティーにできないといけないのだろう。歌もうまい。からだも綺麗。ダンスもうまい。しかも、彼らはその競争社会を勝ち残るために、ひたすら努力している。頑張ってオーディションに受かり、頑張って勝ち上がり、頑張って売れるようになった。そうやって頑張っているひとを、ひとは応援したくなる。だから「推し」がつくりやすくて、推しのために私も頑張ろうという気になる。それがKPOP社会というものだ。

ただ、どうしても商業的になりやすいし、メッセージが同じようなものになりやすい。たいがい恋愛か友情をうたっていて、なんか幼い。

JPOPと演歌と恨み節

私の友人が、JPOPは恨み節から来ているという自説を披露していた。日本の演歌は、あいつが憎い、私が憎い、といったことをつらつらと書いている。私はこころの汚れもなく最高に幸せです、といった演歌は少ない。悲しいともさみしいとも違う、あのなんとも言えないどろどろした世界観が、私は好きだ。演歌はカラオケでみんなの前で歌って盛り上がるとか、楽しいドライブの日に聞くとかではない。ドライブで演歌を聞いたら事故るからやめてくれと幼いころ家族に言われた。結局、ひとりで日本酒なり梅酒なりをちびちびと飲むときに、ああ人生ってこんなもんだなあと思いながら聞くのが最高に似合う。

Jポップはポップ・ミュージックなのだろうか?

その演歌を少なからず受け継いでいるのは、JPOPだ。「ポップミュージック」という体裁をとりながら、それでも演歌と似ている部分があるものと、あえて演歌とは真逆をいこうというスタンスで活動している歌手と、いろいろいる。

JPOPとKPOPの違い

KPOPと違うのは、必ずしもダンスがかかわってこないことだ。だから、ダンスができそうな曲、つまりある程度明るくてある程度はつらつで、そういった曲ばかりではないということだ。だから、もっと幅が広くなるように見えるが、そうではなく、結局多くの曲はある時点で「恨み節」から逃れられていない。

KPOPは底抜けに明るい曲が多い。それとは反対に、底抜けに暗い曲はあまりない。ただ、最低な元カレなどを恨むような曲はあっても、それは「恨み」というよりかは「こんな関係に未来はないからさっさとさよならしましょ、私はあんたなんかもうどうでもいいわ」といった感じである。

ただ、JPOPはその明るさの中にすこしどろどろしたものが混じっている。「さっさとさよならしましょ」というよりかは、「私はまだあなたのことが好きなの、でもあなたって最低よね、でも未練たらたらでまだ別れたくないわ、あららどうしましょ」といった感じの曲が多いような気がする。

音楽は世界を反映する鏡

音楽は、世界を表す。音楽は世界を反映する鏡だ。それは2つの意味がある。

ひとつは、そのひとの中のきょうの世界だ。

楽しい音楽を聴いていると次第に楽しくなるし、悲しい音楽を聴いていると次第に悲しくなる。

楽しい気分になりたければ楽しい音楽を聴くし、悲しい気分になりたければ悲しい音楽を聴く。

そうやって、きょうの私がつくられていく。

音楽は世界を反映する鏡だというもうひとつの意味は、国と音楽とのつながりだ。

音楽がステレオタイプに表す影響

音楽が作られた国のことを、音楽は良く反映している。ラテンアメリカの音楽は底抜けに明るいような旋律で、フランスの音楽はどこかゆううつで、韓国の音楽はわかりやすくて歌っているひとは可愛くて、日本の音楽は恨み節で、中国の音楽は暗くて悲しくて、イタリアの音楽は自我が強くて、そんな感じのことはそのままその国の国民のステレオタイプを形成する。

ラテンアメリカでは自殺率が低くてみんな明るい、フランス人は優雅な食卓でワインを楽しみながら人生について反芻する、韓国は整形やメイクや化粧大国でみんな可愛くなろうとする、日本人は意見をはっきりと言わないで場の空気を大事にする、中国人は人生を悲観して頑張っても無駄だと思う傾向にあるから「寝そべり族」が闊歩していて、イタリア人はメンタルヘルスや自分の意見を大事にして…。

これはもちろん、その国の真実ではなくてステレオタイプなのだが(事実ラテンアメリカの自殺率については私は調べていないが、一般的に中程度の所得の国だと人生の再スタートが難しいので自殺率が高いと聞いたことがある)、そういったステレオタイプは実は音楽からつくられているのではないかと思うことがある。

音楽には世界を作る力がある

そして、あくまでも音楽がステレオタイプをつくるのではなく、国にはそのステレオタイプに合致するような一定量の空気が流れていて、それを過敏に吸い取っている媒体のひとつが音楽、という意見だ。

これは言い換えると、音楽は単なる娯楽ではなく、そのひとの、あるいはそのひとが地球規模に反映する世界をつくるだけの力があるということだ。

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