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エッセイは「置いてけぼり」にしてはいけない気がしている


かなり前の記事の話だが、約一年程前に林伸次さんの「世代の違いをこえること」という記事の中で私のこちらの話を紹介していただいた。


以下は、林さんの記事からの引用文である。

先日、日野笙さんの、この文章を読んでいたら、すごくびっくりしまして。
日野さんが、大学の音楽サークルでバンド活動をした話が書いてあるのですが、日野さん、文章の中で全く「アーティスト名」を登場させていないんです。

普通、「みんなで話し合ってミスターチルドレンをコピーした」とか「ボウイよりもブルーハーツが好きな仲間で集まった」とか、いろんな固有名詞を書きたくなりますよね。どうしても。

でも、そういう固有名詞を全然書いていないから、どんな世代にもこの文章が「刺さる」んです。

そういう世代をこえる文章を書きたいなと、この文章を読んで心に強く刻みました。


こんな風にお褒めの言葉を頂いたことがすごく嬉しくて、書くことを仕事にしていて長い間noteも続けている大先輩のような方にそんな風に受け取ってもらえるなんてと、驚きとともになんだかとても救われたような気持ちになった。
今でも、文章を書いていて迷った時やへこみそうになった時、なんとなく「自分、ダメだなぁ」なんて思った時は、自らを励ますようにたまに林さんのこの記事を読み返している。

Twitterでも山羊さんからコメントを頂いたり、音楽を生業としている方からリツイートしてもらえたりと自分の予想していなかった反響を頂いた投稿だった。


今更ながらに振り返ってみると、実はこの「大学時代の音楽サークルでの話」は、投稿するかなり前に書いたものの、ずっと"なんかイマイチだな"と思っていて投稿する気になれず、しばらく下書きにあたためていたものだった。
なぜ投稿する気になれなかったかというと「個人的過ぎて恥ずかしかった」からである。

話がただの個人的な思い出話でしかなく、読んでいる人が置いていかれて「いや...うん、よかったね。知らんけど」ってなるのでは、と懸念していたからだ。
だってざっくりどんな話かというと、別に有名人でもなんでもないそのへんにいる大学生の"自分の入っていたサークルがすごく楽しかったんだよ"という話だ。

私だったらそこだけ聞いたら超絶「知らんがな」過ぎて絶対に読まない気がする。
しかもそんな知らんやつの知らんサークルの知らん独自システムを解説され、そこに陶酔する知らん大学生たちの話を繰り広げられても、そんなもん「知らんがなオールスター祭り」も甚だしい。
そう思っていたので、果たしてこれは読んでいて面白いだろうか?書くべきだろうか?と思っていたのだ。

だからこそ林さんの "どんな世代にもこの文章が「刺さる」"という言葉に心底びっくりした。
そうなんだ...と思った。
確かに、アーティスト名などの固有名詞を出さないで書いたのは、意図的なものだった。あの記事に私は、特定のバンド名も、曲名も、自分の担当楽器すら書いていない。

それには、2つの理由があった。
1つは私の日頃からの癖のようなもので、自分のこと(趣味や好きなこと)を詳しく書いたり言ったりすることによって「あぁこの人はこういうのが好きなこういう人なんだ」というラベリングをされるのが苦手だからだ。

音楽だけではなく服の趣味、アートの趣味などでもよくこういう謎のラベリングはたまに起こるが、音楽は自分の中でそれがかなり顕著に現れるジャンルではないかと思っている。
簡単にいうと「ジャズが好き」と言うと「へ〜なんかおしゃれだね」と言われたり「クラシックが好き」と言うと「昔から?ひょっとして家がお金持ちなの?」みたいな偏見と先入観を凝縮したような返しをされる、というようなイメージだ。(このイメージがある種の偏見というブーメランもあるけど)

このラベリングが苦手でいつも私はディティールを人に語るのを避ける節がある。もちろん時と場合と話題にもよるのだが。
ピンポイントでそのもの自体を詳しく話した方が面白い場合はあえて出す場合もある。

同じ音楽の話でいうとたとえばこういうのとか。


そしてもう1つの理由はさっきも書いていた「知らんがな」を少しでもなくすためだった。


ただでさえ、一個人のコアな思い出話なのに、そこにさらに枠を限定するような誰のどんな音楽なんて要素はこの話に対して必要ないのでは、と思ったため、私は特定の楽曲などの記載をしなかった。

思っていた、というよりもこれはおそらく無意識的にやっていて、林さんの記事を読んだ結果、"確かにそんな気持ちが働いていたかもしれない。でもそのおかげで読む人に対しての間口が広がっていたんだ"と、あとから思ったのだった。

自分の予期せぬところで何気ない要素がいい結果を生んでいたと知って、なるほどなぁという驚きとともに、嬉しい形で新しく学ぶことになった出来事だった。

そして、私はこのことによって自分の中で常日頃思っていたであろうあることに気がついた。
それは「エッセイは置いてけぼりにしてはいけない」という気持ちだ。

私は文章(小説ではなく、主にはエッセイ)を読んでいて、時々置いてけぼりをくらったような気分になることがある。
置いてけぼりというのは先程の言葉でいう「知らんがな」状態と似ている。

当然のように全く知らない単語が出てきたり、さもそのシュチュエーションを誰もが知っているかのように話が進められていたり、固有名詞がたくさんあってそれを知ってる人にしかわからないような、予備知識が必要な文章に出会うと、私はいつも置いてけぼりをくらったような気持ちになり、その文章を読む気が薄れてしまうことがある。

小説を読んでいてそう思うことはあまりない。
その違いは何かというと、小説はその一つ一つの設定がすでに世界観の描写であり、そこを理解することがその小説の中に自分がより陶酔していくための作業のような気がして、読んでいて苦ではないと感じるからだ。
しかし、エッセイになると私はなぜだかその状況が著しく苦痛になる。


自分が読んでいる時にそういう風に感じるタイプなので、書く時にもなんとなく「置いてけぼり」にしないようにと気をつけているのだ。

略語も気をつけている1つである。
たとえば「スマホ」くらい浸透していて、1つの言葉として認識されているようであれば問題はないが、自分が使っているその略語は一般的に読んでもすぐにわかるものかと一度立ち止まって考えたりする。
もし微妙なラインだなと思ったら、最初の一回は正式名称で書くか、カッコ書きで注釈を入れたりする。

そうしないと一気に読者は置いてけぼりをくらって、なんだかよくわからない専門的なものか、または身内感のある話を聞かされているように感じ、居心地が悪くなってしまうような気がしているのだ。

でもこれは私がただ無知なだけかもしれないし、多くの人の共通認識かどうかという線引きをジャッジするというのもなかなか難しい話ではあるのだが。


でも、私が自分の思う「知らんがな」の要素をできるだけ排除した結果、自分でも気づかないうちに一個人のサークルの思い出話は誰にでも、どんな世代にでも共感してもらえるような間口の広い文章になっていたということが林さんの紹介していただいた記事によってわかった。

自分がなんとなく直感的にやってきたことを、こんな風に文章で解説してもらえて「あぁ、これでよかったんだ」と、とても嬉しい気持ちになった。


文章を書くこと、それを読んでもらうこと、その感想を見聞きすること。
すべてが勉強であり、学びが多いと思うこの頃だ。

周りのことなんて気にしてませーん、好きなことを書いています!みたいな顔をしながら毎回大丈夫かな大丈夫かな、なんて思ったり、うわ〜紹介してもらえた!褒めてもらえた!嬉しい!なんて思ったりしている、とても人間っぽい私である。

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