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芸術と法はどうあるべきか、一考察
表現の自由における自己防衛
はじめに
「芸術家の世界観(個性)を守る仕組み」を私は次のように考案した。
「国立や県立、市立美術館など人目に触れる機会が極端に多い場所で展覧会を開く場合は、鑑賞者のクレーム内容や件数によっては展示会を中止しなくてはならない。賛否両論が分かれるグレーゾーンならその度にゾーニングやレーティングにかける。そしてそのような意見を受け付けず、アナーキーな作品も展示可能なパブ
歌舞伎《女殺油地獄》における、十五代目片岡仁左衛門のガラとニン
1.このテーマを選択した理由と仮説・目標
このテーマに興味を持ったきっかけは十五代片岡仁左衛門演じる『女殺油地獄』を観賞したことだ。歌舞伎の演目において、どんな時代物や世話物でも「人情・仁義」の印象が強かった私には、人として救いようのない程性根が腐った河内屋与兵衛が主人公に置かれていること自体が衝撃だった。その上、ストーリーもどんどん暗くなっていくばかりでどの側面から見ても幸せになった者はいない
音楽理論を、まとめる
音楽という言葉、musicは「ギリシア神話の太陽神アポロンに仕える女神ムーサが支配している芸能や技術」といった意味が元となっている。つまり「ムーサ(Mousa)」がギリシア語で「ムーシケー」になりラテン語の「ムシカ(Musica)」へと繋がって、今日私たちが普段使う単語「ムジク(music)」に至ったのだ。ギリシア神話において女神ムーサは、全能の神ゼウスとティタン族に属するムネモシュネとの娘達で
もっとみるロベール・ブレッソン『田舎司祭の日記』にみられる司祭の罪
1.『田舎司祭の日記』について
『田舎司祭の日記』は1951年にフランスが制作国として撮られ、ジャンルとしてはドラマ映画となります。ヴェネツィア国際映画祭でのグランプリや、ルイデルック賞など、数多くの賞を受賞しました。
原作はフランスの作家ジョルジュ・ベルナノスによる『国の司祭の日記』(1951)です。彼はカトリック教徒で「カトリックの宗教観の体現」が特徴の一つとして挙げられるブレッソンと宗教的
ヒッチコックの作家性と彼が目指していたもの
数週間前の私は「主に20世紀前半に活躍した映画作家を取り上げよ」との課題に尻込みしていた。20世紀後半から現在にかけての映画作品に親しんでいる自分にとって20世紀前半に制作された映画は退屈でテンポの遅い、観ているこちらにも情熱と知性を求められるような面倒くさいものだったからだ。ただ自信をもって「映画が好き」と言えるようになるためには彼らを避けては通れまい。とりあえず家にDVDのあったヒッチコック
もっとみるアリ・アスター監督『ミッドサマー』とシェイクスピア
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」チャーリー・チャップリンが遺した言葉である。はじめ聞いた時は理解ができなかったし、しようとも思わなかった。だが、シェイクスピアの演劇を学ぶうちは「悲劇」と「喜劇」という単語からは逃れられないことに気付いた。彼の作品の幕引きは必ず凄惨か幸福であるからだ。
人に一時的なトラウマを植え付ける悲劇と笑顔に変える喜劇の間には深い溝があるように思えるが、
フェルメール作品の【女】三作における絵画的見方
フェルメールの《水差しを持つ女》と《真珠の首飾りの女》、《天秤を持つ女》。この三作品にそれぞれ意味を持たされているか、を私なりに考えてみました。答えとしては「意味を持たされているものもあれば、ただ唯美主義的にありのままを受け入れ、楽しむべき作品もある」というものです。
なぜその結論に至ったのか一作品ずつ述べたいと思います。
まずは《水差しを持つ女》。
一見、朝に身支度を始める女性の何気のない
パブリックアートとしての岡本太郎『明日の神話』
禍々しい。圧倒されてしまう迫力と大きさをこの画面から感じる。岡本太郎『明日の神話』だ。同作品は1968年からたった1年間で完成しアクリル系の塗料から描かれる。
縦5メートル横30メートルという極端に横長のキャンバスの中心にはデフォルト化された骸骨が焼かれていて、火の動きから予想するに人だったものは熱さに苦しみ逃げ惑うようにしている。こちらからみて左上からは目を剥いた、白い生き物といっていいの