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ヒッチコックの作家性と彼が目指していたもの

 数週間前の私は「主に20世紀前半に活躍した映画作家を取り上げよ」との課題に尻込みしていた。20世紀後半から現在にかけての映画作品に親しんでいる自分にとって20世紀前半に制作された映画は退屈でテンポの遅い、観ているこちらにも情熱と知性を求められるような面倒くさいものだったからだ。ただ自信をもって「映画が好き」と言えるようになるためには彼らを避けては通れまい。とりあえず家にDVDのあったヒッチコックを取り上げてみることにした。
 面白かった。画面から目を離せなかった。
 手に入るどの作品、どの短編を観ても「うわぁ、そうじゃない」「このままそこに止まったら殺されちゃうよ」と一人、心の中で騒ぎ散らかす程にのめり込んだ。普段、レポートのために観賞する際には手元に紙とペンを用意して観賞しながら仔細にメモを取るのだが、ヒッチコック作品に関しては画面から目を離した隙に伏線を見落としてしまうのではないかと焦り、呆けたように口を開いたまま最後まで観てしまうのだった。結局、伏線やカメラワークに注目するためにもう一度観るはめになった。その時、初めて彼をレポートに取り上げるのは大変なことだと気づいた。ただでさえ映画に関する知識が薄っぺらいのに、たった一か月程度で彼の何が分かるのか。
 それでも受けた感動を分析して言語化しなくてはならない。これから数冊の文献と何本かの作品から学んだ彼の表現上での特色をつらつらと書き、ヒッチコックは最終的に何を目指していたのか私なりの考えを述べたいと思う。

表現上の特色

1.日常に潜む危険
これは授業で「サスペンスとはなにか」を教わる度に挙げられるキーワードである。サスペンスの父であるアルフレッド・ヒッチコックの神髄だろう。これがなければヒッチコック映画ではないとまで言い切れる。『疑惑の影』(1943)での魅力的な叔父・チャーリーや『裏窓』(1954)の向かいの夫婦、特にヒッチコック劇場『兇器』(1958)に出てくる冷凍肉、『バアン!もう死んだ』(1961)での拳銃を持った少年なんかはわかりやすい例だ。サスペンスの基本であるが、ホラー『鳥』(1963)でも普段何の脅威も抱かれていないスズメやハトが人間を襲う、といった風に日常に潜む危険を意識していることが分かる。
第四の壁がある限り、サスペンスに説得力がなければ滑稽なコメディまたは破綻したホラーと化してしまう。安全感覚を保ちつつ浮足立たせるためには普段何気なく目にしている物が凶器にもなりえる、といった想像を掻き立たせることが重要なのだ。

2.「逃げる」人々
内的でも外的でもいい、とにかくヒッチコック映画に出てくる人物は常に何かから逃げている。もちろん追うこともある。『ペラム氏の事件』(1955)でペラム氏がドッペルゲンガーと対決するためにあがいたり『めまい』(1958)のスコティがマデリンの幻影を求めたり、が正にそうだろう、だがやはり主人公が逃げている場合の方が多い。『もうあと1マイル』(1957)でサムは妻の死体をトランクに載せ 『サイコ』(1960)のマリオンは会社の金を持ち出したことでそれぞれ警官に目を付けられる。
映画という限られた時間の中で捕まるか捕まらないか予想がつかず、最後まではらはらして集中せざるを得ないのだ。またヒッチコックの素晴らしい所はこのチェイスにおいて大小それぞれの盛り上がりを用意してくれることだ。『サイコ』でマリオンは警察から逃げるし、サムとライラはマリオンを殺害したノーマンを追う、『裏窓』のジェフは向かいに起きた殺人事件の証拠を追っているうちに、リザが犯人に追われる危機にさらしてしまう。ヒッチコックが「私の一番の才能は、見る人を興奮状態に持っていく能力にある」(アルフレッド・ヒッチコック『ヒッチコック映画自身』「検閲で通るまい」より)と語るように、二時間を飽きさせず画面にくぎ付けにさせてくれるチェイスは私達の気分を高めてくれる。
さらにこのチェイス、最後は悪事を働いた側が必ず死ぬか捕まってしまう。全世界の観客に訴えかける強さとしてハッピーエンドであるべきだといった考えと、『サイコ』のノーマンがマリオンに「誰も逃げることはできない」と伝えたことからヒッチコックの天網恢恢な思想が垣間見えるようだ。

3.ドライブ
最近のアクション映画のようなカーチェイスではないが、やはり「逃げる」現実的な手段としてドライブシーンがよく入る。『めまい』『鳥』『もうあと1マイル』『渇き』…きりがない。『サイコ』でもマリオンが車で旧道路を走るが、対向車のライトと雨にけぶったフロントガラスで前方が見えづらくなる。後に浴室での殺害シーンがあることを知っていてもここで事故を起こさないか不安を煽られるのだ。焦りとちょっとしたハンドル操作で命をも脅かしかねないドライブは最も現実的で身近な日常に潜む危険なのだろう。そもそも車自体が好きなのか『生と死の間』(1955)なんかは車の中で物語が展開していく。登場人物のキャラクター付けとして身に着けている物を変えることが好きな彼だから、もしかすると車の銘柄や形によって人物の背景をわかりやすく教えてくれているのかもしれない。

4.声と音
『サイコ』のマリオンがドライブしている間に、妄想した会社員たちの会話がそのまま流れる演出には驚いた。今でこそ他の映画作品に見られるが、まさかモノクロ映画でこの演出が使われるとは思わず、ギャップに気を取られて何が起こっているのか一瞬理解ができなかった。冗長な場面を絶対に作らないヒッチコックは焦りや葛藤を俳優たちの表情だけでなく音声や光、音楽、他ありとあらゆる方法を使って情報を詰め込んでいる。声の入れ方はなかなかに特徴的で、『殺人!』(1930)や『生と死の間』では登場人物の考えていることをナレーションのごとく俳優本人が音声だけで演じている。心の声をわざわざ読み上げるのだ。まるで脳から直接思いが漏れ出てしまっているかのようなこの声によって洗脳されたがごとく登場人物に感情移入をしてしまう。心の声のボリュームが次第に上がっていって感情的になり始めたあたりで次に何が起こるのかしらと身構えてしまうのだ。  
『裏窓』では心の声よりも音が上手く活かされていた。犯人がジェフの存在に気付き階段を昇ってくる時の靴音が静寂の中響き渡り、恐怖心を掻き立てられた。静寂といえば『鳥』のラストシーンでブレナー家の周りに無数の鳥類が集い、鳴き声一つ上げないのも嵐の前夜のようで恐ろしかった。

5.ブロンド美女と性的趣向
『鳥』のメラニー、『めまい』のマデリン、『裏窓』のリザ…『裏窓』に至っては向かいのバレエダンサーまで、皆揃いにそろってブロンドの美女である。『映画人名録』で、ヒロインを選ぶ基準を「男性よりも女性を喜ばせる人」「エレガントな人物」「小柄であること」と語っているが、どうしてもブロンドであることが第一条件なのでは、と思ってしまう。つん、と取り澄ましていて人間臭さのないイギリス女優を嫌ったヒッチコックはいかにもアメリカらしい軽薄さを持ったブロンド美女が好きだったのではないだろうか。「ただ好き」ならわかるが、ヒロインが暴行をうけたり殺害されたりする展開をセットで考えるとややサディズム的な、「女嫌い」が根底にある気がしてならない。真相はわからないがキム・ノヴァクに彼女の嫌うグレースーツを着せ、グレース・ケリーをエレガントだとほめたたえるヒッチコックを見ると、ブロンドの美女に対してコンプレックスを抱きつつも崇めているようである。
彼の性的趣向については『ヒッチコック映画術』でトリュフォーが触れている。『下宿人』(1928)に登場するブロンドの可憐な美女とブルネットの中性的な美女が絡んだり、『めまい』でマデリンの幻想を持ったままジュディと心理的な行為に及んだり(特に『めまい』については肉体的接触よりも心理的な接触においてヒッチコックのアブノーマルさが出ていて素晴らしい)思い返せば結構「性」について開放的に描いているのだ。

6.カメラワークの人工性と演劇性
 ヒッチコックの女嫌い(本人は否定しているが)は『疑惑の影』で叔父のチャーリーが都会の堕落した女性達に対して過度なまでの憎しみを吐露する場面によく表れている。ここで彼の顔が次第にズームされ、重要なセリフに重なるように画面いっぱいになる。授業内でヒッチコックの人工的なカメラワークについて軽く説明されたが、この下手すると滑稽にもみえる画面の切り取り方は役者の演技と目力、所作に注目してほしいゆえに生まれた技法だと推測している。観客を一人残らず巻き込むヒッチコックは見てほしい対象があれば画面の中央に置き、特になければ演劇を見ているかのような平べったい画面構成を作り出す。「見慣れてくると癖になる」とマニアは言うが、惹かれる理由にはその徹底的なまでの温度のなさと最大限に活用されたクレショフ効果があることがわかった。

7.無駄のない演出
 何十年も前に制作された彼の作品が、まだ人を飽きもせず惚れさせ続けられるのは無駄が一切排除されているからだろう。「正しい映画作りの公式とは、まずフィルムの第一巻目で問題提起となるひとつの中心主題を呈示することである。この主題は極力単純な方がよい」(ヒッチコック『ヒッチコック映画自身』「スターに囲まれた人生」より)この言葉に全てが出ている。展開においても凶器においても余計な伏線や情報がないのだ。
『疑惑の影』に見られるように男女が惹かれ合った理由や関係性の発展を深く描こうとせず、『裏窓』ではいきなりキスシーンから入る姿勢に初めはラブシーンが苦手なのかと疑った。しかしこの姿勢についてトリュフォーが理由はあるのか、と聞いた際「だらだらと無駄な時間を費やさずに、いっきょに核心を突くということだ」(トリュフォー『ヒッチコック映画術』より)と返していたため、計算されたうえであえて入れていないことが分かる。

8.ユーモア
 観る人によっては無駄だと感じるかもしれない。けれどもこれこそが彼独自の秘伝のタレである。綱渡りするようなはらはら感が続く間にふと笑いを入れることで肩の力が抜け緩急がつけられるのだ。『裏窓』のエンドでジェフが両足を骨折しているのはまだわかりやすい笑いどころだが、ヒッチコック劇場『賭』(1958)でボネヴィルが無駄死にしてしまうラストや『殺人経験者』(1959)でのひとり語り、アメリカでウケの良くなかった『ハリーの災難』(1955)にはたっぷりとイギリス的なブラックジョークが詰め込まれている。『モンティパイソン』シリーズにありそうな笑いを生み出せるのは、彼がアメリカでも活躍した監督ながら根底にはイギリス的な感覚が残されている証拠だろう。実際に彼は同作品に対し「これこそ、わたしが、型にはまった映画の通念を打ち破って、すべてコントラストを強調しながら描いてみたいという欲望を徹底的に充たした作品だ」(ヒッチコック『ヒッチコック映画術』より)と述べており、強い愛着があることが伝わった。

9.魅力的な犯人
 表現の特徴として最後に挙げたいのは、作品に登場する犯人がどれも癖があって忘れがたい存在であることだ。『サイコ』の二重人格はもちろんだし、『疑惑の影』や『裏窓』、『殺人経験者』『酒蔵』(1956)などに出てくる男たちは表情一つ変えず被害者を追い詰める。それは彼らが自分なりの「人殺しの哲学」を持ちサイコパス的な性質を備えているからだ。ヒッチコックの編み出した人工的なカメラワークと同じように彼らは機械のようで、一種のカリスマ性すら見えてくる。そしてありがちなお涙頂戴の背景もないため、捕まったり死んだりしても同情の余地がないので後味がすっきりしていて良い。
 

表現上の特色まとめと社会とのかかわり
 リアリズムをもって簡潔に、がヒッチコック映画における表現の基本ルールだと学んだ。主題を明確にすることで観客の意識を画面から離さず、興奮させ続けることに心血を注いだのだ。彼が編み出した表現技法や信念は後の映画作家達に受け継がれていった。心の声や二重人格の犯人、めまいショットは今でこそよく見られるが、考えれば19世紀に生まれた彼の作ったものがこれほどまでに多用されている所をみるとどれだけ広く深く後世に影響を及ぼしたのかがわかる。
ヒッチコックが映画をプロデュースしていた当時のアメリカは保守的かつ画一的であったために表現の規制も多かった。反社会的なものや思想が揺らがされるテーマ、過激な描写は却下されたのである。彼はノンポリ的な映画作家に思われがちだが、実のところは社会的に重要な要素を持った映画を作りたいと常々考えており、それが叶わないためにフィクションの世界に押し込められざるを得なかったのだった。しかしこの制限こそが『サイコ』の殺害シーンのように後にも使える汎用性の高い表現技法や特色を生み出したのだろう。

ヒッチコックが目指していたもの
 ヒッチコックと聞けば、多くの人は大衆的で商業的な、いかにも娯楽に特化した映画監督を思い浮かべる。何本かの作品と文献に目を通した限り、その印象は変わらない。だがこの「大衆的で商業的」「娯楽に特化」しているのにも関わらず作品の評価は落ちることなく彼のファンは増え続けている。それは彼がチェスをするかのように何手も先の大きな勝利を目指して動き続けたからだろう。前節で述べたように彼は限られたルールの中で生き残りその方法を惜しげもなく披露した。それはただ売れたい、有名になりたいといったような自分の人生一つで完結してしまうような数手先のためではなく、映画業界自体の更なる発展と自由の獲得のためだろう。
 テレビの普及に見事順応してヒッチコック劇場をヒットさせて映画館に興味を持たせ、映画は演劇の上位互換だと言い切る彼は、柔軟性に富み映画に人生のまるごとを賭けた監督の一人に違いない。

【参考文献】
①『ヒッチコック映画自身』
著・アルフレッド・ヒッチコック 編・シドニー・ゴットリーブ 訳・鈴木圭介
 出版社・薩摩書房 出版年・1999年10月15日
②『ヒッチコック映画術』
著・トリュフォー 訳・山田宏一/蓮見重彦
 出版社・晶文社 出版年・1990年12月10日
③『ヒッチコックに進路を取れ』
著・山田宏一/和田誠 出版社・草思社文庫 出版年・2016年12月8日