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フェルメール作品の【女】三作における絵画的見方


 フェルメールの《水差しを持つ女》と《真珠の首飾りの女》、《天秤を持つ女》。この三作品にそれぞれ意味を持たされているか、を私なりに考えてみました。答えとしては「意味を持たされているものもあれば、ただ唯美主義的にありのままを受け入れ、楽しむべき作品もある」というものです。
 なぜその結論に至ったのか一作品ずつ述べたいと思います。
まずは《水差しを持つ女》。

一見、朝に身支度を始める女性の何気のない日常を切り取った絵画のように思えますが、よく見てみると彼女の表情や左手に持つもの、またテーブルに置かれた他のモチーフに違和感を覚えます。縁に右手をかけて窓を開けた彼女の顔はややしかめられています。もし右上にむかって顔を向けていたら、朝の光の眩しさにこのような表情になったのかと納得がいきますが顔がやや下向きであることから決して日光によるものではないとわかりました。まるで何かを嫌がるような、もしくは決心したかのように眉根が寄せられています。目線を右下に落とすともう片手には水差しが握られていてその下には洗面器が置かれていました。この二つにどのような意味を持たされているのかを調べてみたところ「節制」と出てきました。彼女がもし開けた窓から水差しの中身を捨てようとしているつもりならば、そのしかめた顔や資料に書かれた白い頭巾を被った擬人像、「純潔」にもつながっていきます。「節制」を捨てる「純潔」はそのかわりに何を得るのか。ここで他のモチーフの出番となります。洗面器の横にはわかりにくいですが頑丈そうな小さい箱がさりげなく描かれています。金属製の鍵をかけることのできる箱にはおそらく高価なもの、例えば金や宝石が入っているのでしょう。絵画世界において宝石は「虚栄」を象徴するため、「節制」を自らの意志で失った「純潔」は「虚栄」に塗れるのです。これはまるで人生の転落をそのままあらわしているようですね。自分を律していた者がある朝ふと虚栄を望む。「純潔」の擬人像はその後の展開を見越して不安そうな色を浮かべているようにも見えてきました。前提知識がない鑑賞者でも、堂々と置かれた宝石箱と日用品が並ぶ不思議さ、表情と情景のミスマッチさに気づくことができればこの作品には意味が込められていることを予想できるのではないでしょうか。
 次は《真珠の首飾りの女》。

こちらにも宝石が出てきますね。また、資料にも書かれているように鏡を向いて着飾る女性は「虚栄」や「高慢」の擬人像とされています。ただ、この作品には意味が込められていないと私は考えます。それは単純な理由で、彼女が全く高慢に思えないからです。橙色のリボンを頭につけ、ファーを身にまとい真珠の首飾りを嬉しげにつまんでいますが、その顔は実にあどけなく紅すらさしていないような印象を受けます。また鏡を使って虚栄を表すためには、比較作品に挙げられたミーリスの《鏡を見る女》ほどはっきりと鏡像まで画面におさめなくてはなりません。素直に柔らかく眉を下げており、化粧もしていない彼女はありのままの自分を受け止めているように見えます。ただこの日ばかりはいつもより外見に力をいれたため太陽の光がうまく入り込む窓際に立ってみたかったのでしょう。同じ女性としてとても理解のできる行動でした。優しい風景を切り取った唯美主義的な絵画作品だと思います。
 最後は《天秤を持つ女》です。

陰影のはっきりしたこの作品は一目見ただけで何かしら意味ありげな雰囲気を持っていることがわかります。宝石と何かしら関係のある職なのでしょうか。机の上には贅沢な魅惑が輝いています。ですが、右手でつまむように持った天秤にはなにも乗っていません。その空の天秤をシニカルな笑みで見つめる女性のお腹は大きく膨らんでいて、もしかしたら子供を宿しているのではないかと予想ができます。背後の壁にかかった《最後の審判》は大まかにいうと世界の終焉後に、人間が生前の行いを審判され天国に行くのかはたまた地獄へと落とされるのかをテーマにしたものです。死後の世界と天秤、といえばもう一つ浮かぶのか《死者の書》です。エジプト神話アヌビスが死者の心臓と羽を天秤にかけ、その傾き具合で天国に行くべきか地獄に送るべきかを決めるのです。古代エジプト宗教にもキリスト教にも通ずるのが死後の行き先は何か一つの基準を用いて決まる、ということですね。もしフェルメールがこの絵で何かを伝えたいのだとしたら「死後の行き先や虚栄なんてものは新しい生命の前には馬鹿馬鹿しい話である」ということだと私は受け止めます。宗教画にありがちな厳かな空気を持ってして日常を切り取るように見せかけ、その実、生命や死後のテーマを持ち出す彼の卓越した才能にただ驚いてしまいました。
 結論として《水差しを持つ女》と《天秤を持つ女》はモチーフを使用して意味を持たせられた絵画作品であり、《真珠の首飾りの女》は感情を込めたり過去の記憶と照らし合わせて楽しむものである、というものが私の考えです。