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歌舞伎《女殺油地獄》における、十五代目片岡仁左衛門のガラとニン

1.このテーマを選択した理由と仮説・目標
 このテーマに興味を持ったきっかけは十五代片岡仁左衛門演じる『女殺油地獄』を観賞したことだ。歌舞伎の演目において、どんな時代物や世話物でも「人情・仁義」の印象が強かった私には、人として救いようのない程性根が腐った河内屋与兵衛が主人公に置かれていること自体が衝撃だった。その上、ストーリーもどんどん暗くなっていくばかりでどの側面から見ても幸せになった者はいない。
それでもつい気になって観てしまう。その理由は仁左衛門版与兵衛の色気と美しさ、構成の上手さや息を止めてしまうような間の取り方、狂気に満ちた演技によると考えられる。特に素晴らしいのはクライマックスで与兵衛がお吉を殺す<豊島屋油店の場>だろう。次第に速弾きになる三味線、対して徐々にスローになっていく役者の動き、口の端を吊り上げ覆いかぶさるように刃を構える与兵衛と腰を反らせるお吉、ぴたりと三要素が調和し画面として切り取っても最上の浮世絵が完成していた。私達がこのポーズを真似しようと思ってもなかなかできないし、できたとしても滑稽になってしまう。
なぜ歌舞伎役者はこんなにも美しい見せ場をつくれるのだろうか。
歌舞伎は、文字の中に「舞う」が入るように演劇全般の中でも舞踊としての要素が強い。台詞を読み上げリアリティのある演技を追求する古典的な西洋演劇に対しデフォルメしたような演技や見せ場を持つ歌舞伎は才能だけでなく身体的特徴をも必要とするのではないだろうか、というのが仮説である。だからこそ何代目誰々といったように名役者の遺伝子が生きる世襲制が好まれるのだろう。
同じような考えを渡辺保氏が次のように述べていた。
 
  歌舞伎は、その役が要求するニンに、役者のニンが合っていなければ、芝居が成り立たない。どんなにうまくともニンがなければダメである。どんなに下手でもニンに合っていれば相応に見られる。歌舞伎は、そういう演劇なのである。

歌舞伎におけるガラ の重要性、それに加えられるニン の必要性、この二つを複数の文献を元にして『女殺油地獄』の仁左衛門版与兵衛に当てはめながら結論を導きだすことが目標である。

  

2.ガラの重要性
 
 あの人は、背が高い、小さい、肥っている、大柄だ、小柄だ。との表現に使われる柄が「ガラ」である。
歌舞伎においてガラが重要であることは正直明白である。ガラだけの視点で見るとするならば、どんなに大ぶりに勇ましく動いていても小柄な役者が『暫』の鎌倉権五郎を迫力持って演じることはできないし、大柄で顔つきがしっかりした役者が半道敵を割り振られてもどうもしっくりこなさそうだ。生まれつきの外見で役が制限される。これはどの演劇界でもかわらずに存在する鉄則のようなものである。しかし、制限される、ということは良い面も持している。見方を変えるならば身体的特徴によってはぴったりとあてはまる役柄が同時に存在するからだ。これによって役者同士の棲み分けが可能になるともいえる。役者の身体的特徴を役柄のイメージ的特徴を一致させる利点は世界観への没入感にある。仮に演じた俳優と役柄のイメージが重ならなかったら、その時点で観客は一気に現実へと引き戻されてしまうのだ。
役柄問題だけではなく歌舞伎役者の身体というものも一般人と違うガラを有する。全体として彼らは顔が大きく、脚が短い、筋肉を鍛えぬくことなく肉づきも良い。大きい顔は舞台映えがするし、この体型は平坦的で着物をつける上で最上に美しいとされている。役者達は代々その遺伝子を受け継いでゆき、まるで生物の適応化のように進化していっていることが分かる。新しく歌舞伎界に入りたい人々が一朝一夕ではどうにもならないことがつくづく理解できた。体型の重心が下方にある、というのも重要なガラの要素である。日本らしい美は、必ず重力と関係する。例えば西洋庭園には噴水があり、トピアリーも施される。水は宙を舞い、植木は人工的な形に刈り込まれるのだ。一方で日本庭園は水がどの様に動くのかを学び自然な流れをつくる、盆栽もまた自由に育てて手を少し加える程度が最高だとされる。バレエと日本舞踊も同じように空を目指すか、地と一体になるかで差が生まれていた。
このような要素を仁左衛門版与兵衛に当てはめて説明するならば、彼の役者としてのガラが〈豊島屋油店の場〉(資料①)を可能にした。この見せ場は足腰が下方にないと見てられなくなってしまう。与兵衛の危うさと対称になるような安定した構図は、彼の心底での肝の据わり具合が透けて見えるように感じた。
 だが、与兵衛のイメージ的特徴と仁左衛門の外見的特徴はやや離れたところにあるように思える。与兵衛は端的にいえばしょうもない、性根の腐った殺人者だ。当然、口のゆがんだ悪人面を連想させられる。ところが十五代目仁左衛門は端正な美男である。吉原の粋な遊び人の方がよっぽど似合う。それでも彼の演じる与兵衛は違和感がなくとてつもなく魅力的だ。
ここが歌舞伎の実に面白い所で、ガラだけではどうにも説明のつかないニンという概念があるのだ。

                資料①

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『女殺油地獄』〈豊島屋油店の場〉
引用元(https://www.kabuki-bito.jp/news/1590/)


3.ニンの必要性
 
 仁、ニンはガラと違って後天的で、役者が芸を磨いて作り上げるものである。華と表現しても間違いではないかもしれない。これがなかったなら女方も存在しなかった、それほどまでに歌舞伎においてニンは必要不可欠だ。
普段人と接している時に見た目は貧弱で気の弱そうなのに、ものすごく芯の強そうで迫力をもった人物がたまにいる。この外見に左右されないその人の持ち味がニンだと私は解釈している。ガラの重要性について説明する際、役が制限されるとも書いたが、ニンは役柄のイメージと役者のガラの隙間をみっしりと埋めることができるのだ。時には埋めるだけでなく役柄の魅力を自身の魅力と掛け合わせて倍増することだってできる。
その証明が正に仁左衛門版与兵衛だ。性根の腐った男と端正な顔立ちの深い溝を彼は色気と間、狂気で埋めることに成功している。いい男にみせる色気も、流れとしての間も、演技としての狂気も、彼の勉強によって得たものに違いない。ひどい男なのに色っぽいから許せてしまう。美男なのに駄々をこねるのが可愛い。最終的には人を殺していても狂気と白い顔に映える返り血に息をのんでしまい目が離せないところまでいきついてしまう。整った風貌であればどんな役柄も素敵に見えるのではないかと勘違いをしてしまいがちだが、仁左衛門が非の打ちどころのない善良な町人を演じたらどう思うだろうか、なんだか完璧すぎて鼻につかないだろうか。もし舞台上に出てきても印象と人間味は薄くなる。ガラと役柄は一致すべきだが、本人が強いニンを持っているならばそのルールはないも同然である。
ガラですべてが決まるわけではない所が歌舞伎のいい点である。


4.結論

 ガラもニンも非常に大切な要素であることがはっきりした。西洋演劇よりもむしろ歌舞伎の方が役者本人への執着が強い。連中や贔屓などの言葉が誕生することも、一つの名前が代々受け継がれていくことも歌舞伎を愛する人々がガラとニンに惚れこんでいるからなのだろう。
歌舞伎におけるイメージとしての身体はベースとしての物理的な身体と今まで送ってきた人生経験の完成形だった。役に演じさせられるというよりは役を乗っ取るような勢いが観ていてとても楽しいと思わせてくれる最高の伝統芸能をこれからも広めていきたい。

渡辺保「身体の条件」(『岩波講座歌舞伎・文楽 第五巻 歌舞伎の身体論』岩波書店、1998)33頁。
ここでは「その役者の生まれついての身体の条件」のこと。渡辺保「身体の条件」(『岩波講座歌舞伎・文楽 第五巻 歌舞伎の身体論』岩波書店、1998)35頁。 
ここでは「能力ではなくて容姿、感覚、可能性」のこと。渡辺保「身体の条件」(『岩波講座歌舞伎・文楽 第五巻 歌舞伎の身体論』岩波書店、1998)33頁。


【参考文献】
1.『歌舞伎名作ガイド50選』
監修:鎌倉惠子 発行所:成美堂出版 発行年:2004年12月20日
2.『相貌心理学序説』
著:L・コルマン 訳:須賀哲夫/福田忠郎 
発行所:北大路書房 発行年:2005年2月10日
3.『歌舞伎の芸』
 著:落合清彦  発行所:東京書籍  発行年:1983年10月25日