20代の頃、某フォトコンの作品展に行きました。 驚いたのは、撮影者の年代別で大体のテーマが偏っていること。 若い人ほど祖父母や老人を、年配者ほど自然を撮っている。 自分も当時、祖母や父の実家を撮っていました。 題材も無意識が選んでいる。 そこからはみ出すにはどうすべきなのか。
現在のストリートスナップはアメリカン・ニューカラー派のいわば末路ですが、その根底にはホッパーやワイエスのリアリズムがあります。 この2人を写真で統合したのがショアでしょう。 近代人の不安や、間延びして退廃した消費社会のやるせなさ、孤独。 三島由紀夫が憂えた世界かもしれません。
「日本的なもの」を突き詰めると「書」に行き着きます。 石川九楊氏ほど書と歴史、精神文化を哲学されている方はいないでしょう。 その作品はもはやどのジャンルにも当てはまらない。 中平卓馬の父も書家だった。 日本の写真も書的であればこそ、独自性・特異性が出るのではないか。
私は20代前半で某フォトコンに入選しましたが、それ以後、どうすれば審査員など他者にウケるかばかり考えるようになりました。 やがて他者ウケを捨てました。 それからは表現ではなく「排泄」になりました。 「表現」はあくまでコミュニケーションですから。 私の場合は「排泄写真」です。