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ワタナベアニ著『カメラは、撮る人を写しているんだ』を読んで思うこと

以前感想を書いた幡野広志さんの本に続いて、写真の指南書とも言えるものを、また手に入れる機会があったので、感想を書きます。
写真の指南書と言っても、ストーリー形式というか、写真を始めようとする若者と、ロバートというカメラマンとの会話形式で進んでいく本です。

私が実行していたことをことごとく「ダサい」と吐き捨てられる気がして、ページをめくるごとにハラハラしながら読む。確かに、「何気ない日常を切り取る」とか「写真好きな人と繋がりたい」って、人によってはこの上なくダサい言葉に思えるのかもしれない。


以下、一番思うところの多かった一文です。

自分が自分であるためには、断言しないといけない。私はこれが好きだ、という積み重ねが写真になっていく。

本文より

こういった表現を見て、ああ、カメラマンって、研ぎ澄まされた独自の美意識で、あらゆるものを取捨選択していく、という職業だったのだよなあ。と改めて思ったのだった。

私が今まで出会ってきたプロカメラマンは、割と多いと思うけど、彼らに共通して言える傾向は、彼らが人間として魅力的である、ということだ。華やかな世界にいる、ということもあるだろうが、カメラマンはモテる人が多い。
それに比べて、私の出会ってきたアマチュアの方々は、スペックや専門用語を早口で並べ立てるようなところがあり、「写真を撮っている」というより「カメラを愛でている」イメージの人がとても多い。

なぜプロカメラマンは魅力的に見えるのか、それを紐解いていくと、「美意識」という正解のないあやふやなものを、自分でこれと信じ、貫こうと努力しているからなんじゃなかろうかと。つまり、「哲学」を人生の根本に持っている、または持とうと努力しているんじゃないだろうか。

今、「正解」という歌が割と流行っているけれど、この国の人は正解が大好きだ、としばしば耳にする。あと「型」というものも。物事に疑問を持たず、ただ正解がこうだから真似する、というような。
かくいう私もあまり考えず三分割構図を取り入れていた、ダサいアマチュアカメラマンの1人だ。

この本の指南役であるロバート氏は、美意識を固めるために容赦なく「ダサい」と切り捨ててしまうところはある。それを天邪鬼とか意地悪にすら感じてしまう部分もあるだろう。そのぐらい自分の美意識に厳しくいることが彼にとっての哲学なのかもしれない。

また、本の中に出てくる、オリジナルを求めるあまり自分が何をしたいのかわからなくなる、というのはよくある話で、私もその悩みはずーっと抱えている。
私は、「これもいいよね」「あれもいいよね」「みんな違ってみんないい」と他者を認めるあまり、自分の美意識を研ぎ澄ますということができなくなっていたのではないだろうか。

昔、近所の喫茶店で1人お茶をしていた時のこと。
お店のマスターを交えて、初対面同士の客でもオープンに話せる雰囲気。
そこで、知識人ぶったおじさんが、そこに居合わせた、まだ売れているとは言い難いミュージシャンに、
「君はどういう感じの、例えば誰みたいな音楽を作りたいんだね?」
と聞いているのに遭遇した。
そのミュージシャンが言葉に詰まったのを見て、私は、
「どんなふう、って簡単に表現できないようなものを作りたいんじゃないんでしょうか」
と、横槍を入れたのだった。
急に小娘(当時)に毒を吐かれたおじさんは苛立った様子だった。
そしてそのミュージシャンは、私に自分のCDをくれた。
私だって絵を描いたり写真を撮ったりしている。理想の写真家や画家はいるけど、「土門拳風の」とか「モディリアニ風の」とか枕詞のついた写真や絵を作り出したいとは思わない。私には私にしか撮れない写真があり、私にしか描けない絵があると信じたい。その気持ちはあのミュージシャンも同じではないかと思ったのだ。

そんなふうに、私は、自分独自のものを作り出したい、という気持ちだけは強いのである。
写真を撮るなら、自分の美意識に照らし合わせて、それに沿ったものを撮る。そのために自分の美意識を固めることが根本だ。この本を読んで、そんな当たり前のようなことを、再認識させられた。

もちろんアマチュアだし、好きなものを好きなように撮っていいんだけど、あまりに自由すぎるとそれはそれで何を撮ったらいいかわからなくなる。
他者によらない、自分の中での基準を大切にすること。
そうして、撮った写真に撮影者の意思が現れるのだろう。

季節は節分。豆まきも恵方巻きもしませんが、福豆をいただいたので食べました。
年の数は多すぎるので、ほどほどに。

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