全てを他人や他国のせいにするのも悪だが、すべてを自らのせいにして自分がいなくなれば、自分が悪になればいいというのも思考停止した駄悪である 健全な反省・改善というものはその場の状況に合わせたバランスが取れたものでなくてはいけない 周りが極端にやっているなら自分も、となってはいけない
素悪は生命式の多様化力にあたります では、同一化力とは何か それはすべてを丸め込もうするあのあらゆるものの上位概念、信仰・愛・発展などから成るあの、あれです しかし、あのあれは素悪とイコールなので、素悪に自覚的ならば、気にしなくてよいです 素悪に基づく使命感こそがあのあれですから
文明は安全を求めて生まれた。現代文明は絶対安全を求めて加速している。毎年子供は事故死する。目標はそれを0にすること。誰も反対できない。自分の子供が死んだら「死ぬこともあるよね」とは言えないからだ。ここで見過ごされるのは他人の子供なら死んでも気にならない事。善人はこれを絶対認めない
原罪は聖書信仰者としての素悪です。 実存は個人としての素悪です。 発心は修行者としての素悪です。 因果的に、特異的な結果にいたるすべての因子が素悪です。 素悪がないならば、 それ以外の何かになる必要などない。 素異がないならば、 そもそも特異的生命でさえなく、何にも成れない。
発展とは何か。 発展途上への憧憬である。 あの頃は良かったと口々に言うことだ。 ふとした時に正気に戻ってしまうことだ。 発達とは何か。 幼体への憧憬である。 何にでもなれるはずだった頃の焦りと不安が、むしろ、何者でもなくなっていく日々への不満に変わっていくことだ。 偽悪者の冠
善行は「善意」とは違う。たとえ偽悪的に振る舞い、その真意を誰も理解できず、人々が称賛しなくても、誠の心=「黄金の精神」から出た言動を貫き通すなら、その生き様は時空を越えて他の誰かに必ず伝わる。 https://note.com/k_maru027/n/n04bf8d4cac4c
力や知識や道具に貴賤や善悪はない。ただ使う者の心次第で生かしも殺しもするだけだ。 故に絶対的な善も、絶対的な悪も、絶対的な正義も存在しない。我々は誰もが「小さな咎人」である。 https://note.com/kawanjin01/n/n6dc19f37a872
善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。 ――親鸞『歎異抄』 己を善人と思っている者ほど悪行を働き、逆に悪人だと思う人が善行を積む、という皮肉。 この世に唯一絶対の正義など存在しない。 償おうとする心が、行動力をうむ|望月俊孝 https://vortex.takaramap.com/n/n249539175168
https://twitter.com/tsubame39osaka/status/1535428044827262976?s=09偽善も偽悪も同じこと。