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【思想】必要悪

如何にも良識的なキレイゴトを吐く偽善者や人権屋達は、犯罪者の人権をとかく擁護しようとする言動が目につくけれど、被害者側感情に立てば、何の制限、制約も無ければ犯人に対し自らの手を下し報復、制裁を与えたいと言うのが世の常、人情だと思う。
勿論、現行している法律からすれば、大抵の人は自ら手を下せば犯人と同様、もしくはそれ以下の人間に成り下がってしまう事を理性的に理解しているので、法的手段に頼らざるを得ない。
なので、被害者側に対してだけ1回限りの制限で、仇討ち制度を復活させても良いのではないか?と考えたりもする。
死刑制度反対派の人達にこの類の人種が多く見られるが、死刑制度がある程度犯罪の抑止力になっているのも事実であるし、サイコパス的な更生不可能で生かしておいては害悪が及ぶだけの人間を間引くという意味でも、死刑制度は必要だと思う。
理性的に考えれば、人が作った法律によって裁かれ、人の命が奪われる死刑制度もある意味、合法的ではあるものの殺人と変わらず、戦争で人が命を奪い合うのを正当化するための詭弁と同様なものだと捉えられないこともないけれど。

それに昨今では、先にも述べたように、死刑目的で殺人を犯したり、生活苦を理由に刑務所の方がまだ快適な暮らしができると収監目的で犯罪を犯す者など多岐にわたり、現行の法律ではそろそろ限界が見え始めている。
自分のような過去に一度でも心が真黒に染まってしまった人種にとっては、もし自分が被害者側で犯人に対する感情を表すとしたら、単純に犯人に対して報復、制裁だけでは納得できず、極刑は望まない。
犯人に対し死に伴う一時的な苦痛を与えて楽にしてあげても、遺された被害者側の苦悩は終わらない。
それよりも生かしておいて、死ぬまで被害者側の苦悩以上の苦痛を与え、生き地獄を一生味わって頂くことを切望する。
勿論、生きて罪を償ってもらおうなどという綺麗な感情ではない。
ここまで汚い感情ではないにしても、所詮、人間なんて皆自分が一番かわいく、人より優位に立ちたいとか、自分を正当化して他人に良く見られたいとかエゴの塊であるし、報道などメディアから流れてくる事故や事件の情報が入ってきても、直接自身に関係することでなければ、一時的に被害者に対し同情や哀れみの念を抱いたとしても、所詮他人事なので何処か映画を観てるかのような客観的な感情であるし、すぐに自身の生活に追われ忘れてしまう。

それに、自身に精神的、経済的等に余裕があるので自身の出来得る範囲内でボランティア等を行えるのであって、その時点で強者(支援する側)ー弱者(救済される側)という関係性が構築され、例え支援者側にその意識が全く無かったとしても、救済される側にそう捉えられてしまった時点で被害者意識から素直に支援を求める気持ちにはならないし、偽善と捉えられてしまっても仕方ない。
行動に移さない善行よりも、偽善であれ何であれ実際に行われた行動の方が意味のある行為だとは思うけれど、とかく弱者は被害者意識に囚われ懐疑的になってしまうのは仕方なく、そこまで気持ちを汲み取って行動しないと、善意の押し付け(俗に言うありがた迷惑)になり兼ないし、最悪、自身を美化してアピールするための口実だと捉えられかねない。

以前、とある施設で車いすの方にサポートを求められた時、必要最低限のサポートしか求められず、お節介にもそれ以外のサポートをしようとしたら丁重に断られ、その真意を伺ったところ、どうしても物理的に不可能なことだけは人に頼らざるを得ないけれど、必ずしもサポートに協力的な人ばかりではないのでお願いする際も物凄く勇気がいるし、極力、自力で出来ることは自分で行わないと、人に頼ってばかりの自分では何も出来ない人になってしまうから。
それに、最後まで面倒をみてくれる人なんていないでしょ、親ですら自分より先に亡くなってしまうのだから、自分でできることは自分でやらないとダメなんです、と。
自立していて立派だなと感銘を受け、自分のことを物凄く恥ずかしく感じた。
自分は結婚もしていなければ子供も居ないので、偉そうなことは言えないけれど、この方の考え方は、親子関係にも言えることだと思う。
通常、子供より親の方が先に亡くなる。
親が亡くなった後、子供が自分の力で生き抜いていける術を叩き込むのが、親の最大の責務だと思う。
これは、親の敷いたレールに沿って生きてきた自分が子供という立場から、お嬢様育ちで過干渉な母に対して社会に出てからずっと抱いていた気持ちだった。

これに波及し、父性・母性についての考察を言及すると、反面教師でしかなかった父親、過干渉で自活力を奪う母親、この環境下で男性的な言動や動物的本能に嫌悪感を抱き、積極性・自主性に欠け、どちらかと言うと女性的で受容的な感覚が強く、男という生物として自分の無力さに打ち拉がれ、内省した結果、母性的な女性特有の受容的感覚や諦めにも似た全てを受容する媒体的感覚を活かしつつ、猿真似ではあるけれど生き様で導くような背中で語る的な父性を備えようと尽力し、草食動物から両性類へと進化できたとは思っている。
ただ、細かいことではあるけれど、未だに「飯(めし)」と「食う(くう)」という言葉を発声することに抵抗があり、嫌悪感を抱いてしまう。
そして、ジェンダーアイデンティティは男性だと自覚しているけれど、どんなセクシャルマイノリティであってもフィジカルには受容不可ではあるけれど、精神的には受容可能だったりする。
このようにマジョリティにとっての常識から逸脱してしまい、人の道からも外れたキチガイじみた言動をとってきてしまった自分からすると、どーせ理解されないだろうし、今更、他人からどう思われようと構わないので、表現者(クリエイター)として社会の汚れ役(ダークヒーロー)を買って出る覚悟は出来ているし、作品を通して人間の汚い感情を吐露することによって必要悪という存在になることが出来れば本望だと思っている。
そもそもロックという音楽は、反体制的で思想を反映させた作品を通して民意を感化し焚き付け、政治や国をも動かす力の拡大に作用するために用いられたりもしたし、ジャズや黒人音楽等は奴隷としてアメリカに連れて来られた黒人達の行き場のない感情を昇華、救うために発祥した音楽であるし、行き着くところリズムという音楽のミニマルな土台のみ用いて遠方の人への情報伝達手段であった過去から考察するに、何の思想もメッセージ性もない音楽に価値を見出せず、せめて自分の創作する作品においては、所謂、表現の自由ないしは言論の自由という権利において、既存の社会システムや社会生活における不条理、理不尽な対象を破壊・再構築、若しくは問題提起ぐらいはできるような政治的イデオロギーや破壊力のある武器でありたいという意識の基で創作のモチベーションにしている。


2018.08.19

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