高木鉦太朗

自分と異なる考へに触れたくてフォローします。フォローバックのお気遣ひはご無用です。 …

高木鉦太朗

自分と異なる考へに触れたくてフォローします。フォローバックのお気遣ひはご無用です。 フォローしてくださる方の記事は、読んでもこちらからはスキはしません。なんでやねん! 多文化共生も移民も反対。 夢見る理想世界は、鎖国日本。 推しはタブレット純さん&呪ひの日本人形さん@USJ

最近の記事

メモ・あやのん(さん)論・続

あやのんさんの記事は印字してあって、「あやのん(さん)論」を書くにあたって、一部が机の上に載ってゐた。 妻が、それを何気なく取り上げて読んでたので、 「文才、あるやろ?」 と尋ねたら、 「あるわね。私、上手いでしょって感じがなくて、でも、上手い」 と応へたので、我が意を得たりって思ってゐると、さらに、 「軽い感じで読みやすいけど、薄っぺらくない」 これは、以前も、わたしと同意見だと思ったこと。 そして、 「こことか、かういふ感性があるのはすごいね。全然、薄い人ぢゃない」 と言

    • メモ・あやのん(さん)論

      といふことで、わたしの記事のことを紹介してもらった。 感謝のコメントも書き込まないまま、今日まで来たのは、嬉しいのだが当惑もしたからだ。 あやのんさんがわたしの記事を読んでくれたのは、わたしがあやのんさんの記事を熱心に読んだからだ。わたしの記事には人に読んでもらふ力が無い。自室に閉じ籠って呟く独り言だ。わたしの妻はわたしの記事の査読者だが、結果として告げられるのは「誰も興味を持たない」でなければ「誰もわからない」である。「誰も」は言ひ過ぎなのではないかと思ふが、わたしのこと

      • 無数の卵

        村上春樹氏の『卵と壁』より 私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構

        • 言論の自由なんて言はなければよかったのに

          日本は「言論の自由といっても、『人の心を傷つける言論』はダメ」といふ社会になってゐて、SNSでも誹謗中傷はダメどころか法律で罰せられることになった。 何を言ってもいいけど、誹謗中傷はダメ。 なるほど、けっこうですね、世の中が暮らしやすくなりますよ、ってみんな思ふらしいが、わたしは、誹謗中傷はダメだと言ひ出した時点で、言論の自由は死んだと思ふ。 ヒトがなんで自由にものを言ひたいかといふと、ヒトの悪口を言ひたいからだ。 わたしたちが言葉に力を感じるのは、人の心を傷つけることがで

        メモ・あやのん(さん)論・続

          わたしが信じるのは科学だけだ

          私が信じるのは科学だけだ。「科学的な真実」とは、今の時点で「最も・もっともらしい(plausible)仮説」のことだ。科学の仮説であるには、反証可能性を必要とする。つまり、「科学的な真実」とは「間違ってゐるかもしれない、真実としては非常にあやふな認識」である。だから、科学的真実とは、一般に「真実」といふ言葉から受け取られてゐるやうな、何かの長い探求のはてにやっと手にできた最終的な認識、・・・といふものからはほど遠い。むしろ、対極にある、ほとんど錯覚や幻想に近い、ふだんの暮らし

          わたしが信じるのは科学だけだ

          考へるのをやめる方法

          考へ続けるのはしんどい。意見を持ちたくなる。自分の意見を持てると楽だ。何につけてもさっと意見が出るやうになると思考停止したといふことだからだ。意見を持って考へるのをやめたい人が増えると仏教に人気が出て来る。仏教に限らず、思考停止の方法として一番有効だったのは、宗教だった。これに代替(か)はるものを私たちは求めてゐる。政治や思想やスピリチュアルやセックスやスポーツや推し活や、あれやこれやといっぱいあって多すぎて、かへってこれといふものをみんなで掴むことができない。みんなで掴まな

          考へるのをやめる方法

          子供は少年と少女になり、少年と少女は男と女になる

          小学生くらゐまでは、子供は、親の望む自分でありたいと励んでゐる。他者である親の欲望を生きてゐるのが子供だ。春機発動期とも言はれる思春期に入ると、子供は、身体の欲望によって親の欲望を押しのけ始める。二つの欲望の板挟みになることが思春期の苦しみの一つだ。少年の欲望は、勃起と際限なく繰り返される自慰によって表象される。だから、たいていの少年はそのふたつに関しては沈黙する。少女の場合は、乳房といふ・顔のすぐ下にあからさまにふしだらにみだらに突き出される性器がその欲望を表象してゐる。だ

          子供は少年と少女になり、少年と少女は男と女になる

          哲学的マゾかしら?

          何かに対して判断したつもりでも、無意識の中の自分の価値観の確認なのだと思ひます。少なくとも、わたしはさうですね。 わたしは、どんなに考へても考へても、生きてゐる限りは、自分の頭の外には1ミリも出られないんだらうなと思ひつつ、 考へてる。 って、わたしはマゾか? 哲学的ゾンビならぬ、哲学的マゾ? まあ、エスエムって好きだから、いいか( ´艸`) 追記 わたしが上でシェアした記事がシェアしてゐる記事(ややこしいけど意味わかります?)の書き手って、すごい賢い人みたい。

          哲学的マゾかしら?

          三歳神話

          ヒトは関係の中でしか自己を持てない。 関係を創るには、 自己の他にもうひとり、自分を自己だと思ってゐる他者が必要だ。 ヒトは女の胎内に宿った瞬間から、その女を母親(ママ)として関係を繋がうとする。 ヒトにとっては精神の生き死にの問題であるから必死である。ママとの関係を繋がなかった人は、その後の人生を、構造化できてゐない自己の中に暮らすことになる。 構造化できてゐない自己は、ワタシといふ脳内に宿った幻想の形式をしっかりと保持できない。 自己の内外から声や姿が出入りする。あ

          オカマとは誰のことなのか

          オカマは差別用語であるさうです。 では、どう呼ぶのが政治的に正しいかといふと、 オネエ らしいです。 あら、わたし、知らなかったわ。 わたしはオネエ言葉を使ひますが、この記事ではこの オネエ言葉と、 その使ひ手(オネエ話者) について考へてみたいです。 先ず、オカマといふ言葉に関しては、いはゆる「当事者」でも、これをひどく嫌ふ人と平気な人、それから偽悪的に言はないでもいいときでも人に言ふ人などがゐました。 でも、オカマといふ言葉を嫌ふ人たちの代表として、あの大御所が次

          オカマとは誰のことなのか

          柔らかい、硬い

          以下、引用です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 実直に言って自分の身体がオトコって地獄、よく耐えたね あの頃自分の身体で柔らかい部分ってペニスの先端部(亀頭)くらいしか無くって、この柔らかさはいいなって思ってた。硬いちんぽでオンナを犯すって話とずいぶん違うねって 男性時代の亀頭部と いまのあたしの顔の素肌 柔らかさ同じくらい 自分で自分の顔を撫でていて、この質感なんか記憶にあるなぁ??と思って辿ってみたら、そうだった。 男性時代、ペニスの先端部だけは材質が違ってい

          柔らかい、硬い

          家内安全、火の用心

          付け足すことありません。 純粋シェア記事。わたしって、カントみたい?( ´艸`)

          家内安全、火の用心

          誰ひとり取り残されない世界―案外と近いかも

          わたしは、人工知能が発達して人工実存になるんぢゃないかと思ってゐます。 人工とされるものも、実は、自然の模倣にすぎない。数学にしろ、音楽にしろ、人間は何も創造してゐない。元々、宇宙に存在してゐるものごとを発見しただけ。 だから、人間の科学技術、その科学技術から生まれた現代の都市も、すべて、自然の進化の過程であると思ってゐます。 コンピューターは炭素によらない生物を生み出すために、人間が「発見」したのだと思ひます。 今、AIからデザインを盗まれないために、デザイナーたちが

          誰ひとり取り残されない世界―案外と近いかも

          大衆の好きな話

          大衆の大好きな話。 感動、した? 制作、でんつーかな? みんなで吊るし上げる・金儲けの亡者と みんなで褒めそやす・創業者の精神を尊ぶ「こころの経営者」と そのふたつしかゐない世界を作りださうとするマスコミに操られる(もしくは自ら踊る)人々が、大衆。 感動した人は、そもそも、最初に、吉兆をあんなにボコボコにして潰す必要があったのか、なんか不思議になってきませんか? ねえねえ、聞いてる、わたしの話? うーん、今、宙組とかジャニーズ問題とか宗教二世問題とかでどんとん盛り上

          大衆の好きな話

          ヒトは嘲笑する動物である

           笑ひとはなんなのか、よくわからないが、嘲笑に関しては、 人の属性 を笑ってゐるのだらうと思ふ。  わたしなどは、オカマであることで笑はれることがあった。    姉が七つ年上で、しかも、弟のわたしの世話を母に代はって引き受けてゐたので、わたしはものごころつくころには、姉の友達の女の子のグループの中にゐて、一緒に遊ぶことが多かった。  女の子たちは、わたしを小さい人形のやうだと言ってゐた。女の子たちは明らかに、わたしで遊んでゐた。わたしはオモチャだったのだと思ふ。  わたし

          ヒトは嘲笑する動物である

          愛の冷蔵保存と魂の存在

          母の姿を追って水に飛び込むことを1年、2年、3年……と続けていくうちに深く潜れるようになり、とうとう水底に眠る母親と再会を果たす。そこは水温が低いうえ塩分濃度も高いため、母の遺体は生前そのままに保存されていたのだ。 『ワタリ』の中で、主人公が殺された恋人の亡骸(なきがら)を湖の底に置いて冷蔵保存してゐる場面があった。 主人公は少年で、恋人も、女の子。 ほんとにまだ幼気な女の子が、丈の短い・ふくらはぎの半分が出た着物で横たはってゐる。 水底での接吻。 魂を信じない人間には、

          愛の冷蔵保存と魂の存在