メモ・あやのん(さん)論・続

しかし、神社と言う場所は、どこに行ってもその浮かれた気持ちをひんやりさせる厳かさがあるのが不思議である。

目に見えない世界⑨「日常の小さな不思議」@あやのん2023/7/13

あやのんさんの記事は印字してあって、「あやのん(さん)論」を書くにあたって、一部が机の上に載ってゐた。
妻が、それを何気なく取り上げて読んでたので、
「文才、あるやろ?」
と尋ねたら、
「あるわね。私、上手いでしょって感じがなくて、でも、上手い」
と応へたので、我が意を得たりって思ってゐると、さらに、
「軽い感じで読みやすいけど、薄っぺらくない」
これは、以前も、わたしと同意見だと思ったこと。
そして、
「こことか、かういふ感性があるのはすごいね。全然、薄い人ぢゃない」
と言って指した箇所が、上記の文でした。

神社と言う場所は、どこに行っても、浮かれた気持ちをひんやりさせる厳かさがあるのが不思議である

そのことと、次に引用する文章をからめて、
あやのん(さん)論
の続編を書きます。


あの本を持っていて、実際、神社で祓い言葉を唱えたり、神社の境内で、あきらかに神の存在を感じている、そんなつきふねさんの記事の清浄な空気に、皆、惹かれて集まっているのだと思います。私もその1人。奈良も長野も魅力があり過ぎます。最近、日本の名所には外国人が多すぎて、奈良も、どこも、あまり行く気にはなれないのですが、マジ、鎖国して欲しいと思わないでもないです。まず、外人より、日本人が、日本の文化を取り戻さなければと思っています。特に自分が。

「noteでの記録✧♡」@あやのん2023/12/23コメント欄

マジ、鎖国して欲しいと思わないでもないです。
といふ言葉。
これは、先に触れた感性といふか霊性といふか、どういって言ひかわからないけれど、おそらく
神社がある日本に暮らす日本人には(神社仏閣ができる以前から)備はってゐた感覚から出て来た言葉だと思ひます。

なんで?
鎖国なんて
多文化共生の時代に逆らふ排外主義ぢゃないの?
って思ふかもしれませんが、
ちょっと待ってね。

かつて日本が中国から律令制度をほとんどまるごと導入したのは、国家による支配体制を確立しないと、中国の属国にされてしまふからでした。
なんでも受け入れてしまふ日本は、制度も典礼の髪型や服装もすっかり中国人みたいになった。
当時、国家運営の原理としては儒教がうってつけ。人民の洗脳支配にも使へるから、いまだに中国では孔子学院とかがある。

この儒教が日本の文化を侵食することに対してレジスタンス運動を行ったのが空海だったと思ひます。
空海は、儒教と道教と仏教のみっつの教へを比較検討して、仏教さいこーって結論を出した(『三教指帰』)。
でも、その仏教といふのは、空海さんが教祖である新興宗教といってもいいもので、
真言を唱へ
手指で印を結び
瞑想して心を仏と一体化する

といふ三つのテクニック(身口意三密)によって修行すれば
あなたも今日から仏陀!
といふトンデモ仏教でした。オウム真理教ぢゃん、これって( ´艸`)

ここで留意したいのは、空海さんが試みたのは
仏教の換骨奪胎、日本化だったといふこと。

つまり、
日本には仏教を吸収し消化してしまひ、
それを日本の文化の血肉にすることのできる、
基盤としての主体としての文化があるといふこと。

基盤としての文化、主体としての文化
これが日本の場合、「空の文化」つまりドーナツの穴みたいなもの。
だから、主体と言はれても、どこにあるの?って感じ。

でも、ドーナツなんだから、仕方ないの。
ドーナツがドーナツであるのは、真ん中が無いからカラだから。
要するに「空」だからです。

なんでかうなるのか?
中国では、
天がすごい
天からなんでも降ってくると考へて、とにかく
天だ天だ、天ならいいんだ
といふことになり、(わたしの大嫌ひな)西郷隆盛さんなんかもその名と二個一で敬天愛人といふフレーズが出て来ます。

大塩平八郎の乱の大塩平八郎中斎さんも儒学者なので、檄文に
天命を奉じ天誅をくだす
と宣言しました。

でも、この大塩平八郎さんも、幕府御用達の儒教である朱子学には納得できなくて、陽明学などに浮気して、結局は自分独自の思想を獲得して、
その「言ったからにはやれ。やれないことなら黙ってろ」といふ自ら信奉する思想に殉じて(これは三島由紀夫氏の決起と同じ過程)、救民の義挙を行ふに至りました。

かういふ大塩平八郎さんの天は、
天とは言ひながら、孔子様たちの言ってる天とはどうも違ふ。

日本人の場合、上だけ見てるのではなくて、山とか川とか野原とか、自分の足元から始まってずーっと四方八方の周りを見て、それを天と言ってる。
だから、天地となる。

つまり、天だけぢゃくて地も含んで、草木国土悉皆、要するに、
自分たちが生きてその中にゐる自然のことを、中国語を使って、

と呼んできた。

大塩平八郎さんなんて、自分の心の中にも「空」としての天を観た。

だから、天命を奉じるとは、
自分の
心の中の「空」としての天

頭上の天
とが一体なること。
心の中の空(天)、自然に満ち満ちてゐる空(天)、
その二つがひとつになるといふこと。

身体の中の空が、身体を壊して、天壌無窮の空に帰還すること。
空が空に帰還することが大塩平八郎にとっての義挙だった。

かういふ考へ方は、
自然との大調和
といふ言ひ方をすれば、今の日本人にもなんとなく響くのではないでせうか?大調和が大仰な響きがして(参政党や生長の家みたいで)いやな人は、
自然との調和
にしてみて。

日本人は、日本列島の自然環境のおかげで、大陸的な荒野に立って天や雲の上の天国を見上げる必要が無かった。ふつうに周囲を見たら、そこに人としてどう生きたらいいかといふ「自然の手本」があった。

長々書いてきましたが(まだ読んでる人、ゐるかしら?( ´艸`))、
ここで、やっと、

神社と言う場所は、どこに行っても、浮かれた気持ちをひんやりさせる厳かさがあるのが不思議である
といふ文章に戻ります。

天みたいな理屈ではない。
日本人は、周囲の自然から感じるもの、自然が語ること、さういふものを捉へて、
人はどう生きるべきか
社会はどうあるべきか

を探ってきました。

だから、神道には聖書が無い。
人の言葉では語れないものを、自然が伝へてくるから。

かつては、神社などは必要なかったから、神社も無かった。
神社とは、自分たちが暮らしてゐる広大な自然のミニチュアにすぎず、そんなものを自然の中に造る必要は無かった。

けれども、今となっては、西洋都市文明が日本の居住地区を覆ひつくしてゐて、神社は日本から失はれていくものの何かの象徴のやうになってゐます。

神社で祓い言葉を唱えたり、神社の境内で、あきらかに神の存在を感じている、そんなつきふねさんの記事の清浄な空気に、皆、惹かれて集まっているのだと思います。

かうした文章の中でも
祓い言葉
②神の存在を感じる
③清浄な空気に惹かれる
といふ句から、あやのんさんの感性が見えてきます。

①とは、
生きて暮らす限り日々刻々と積もってゆく穢れを、自ら省みて謙虚に丁寧に祓ひ清めること
②とは、
やはり積もってくる人間知に惑はされず、不思議なことを不思議であると感じる感性を保ち磨くこと
③とは、
小さな我に執着しないで、互ひに暮らしよい社会を維持し作っていかうとすること
などと具体的に(他にもいろいろと考へて)言ひ替へることができます。

あやのんさんは、①②➂を意識するでもなく心に持つ人で、
わたしとしては、それが日本人のデフォルトだったと思ってゐます。

そんな日本人なら、神社仏閣に、ただもの珍しさだけで押し寄せる外国人観光客に対して、何も感じないはずがない。
山は拝んだり、籠って自己の心を清浄(=正常)にするための修養の場であったりしたのに、明治になって日本に入って来た西洋人は、登山といふスポーツのための場所にしてしまった。

登山とは、山を征服すること。神を感じる場ではなく、スポーツ会場にすること、遊園地にすること。(比叡山の山頂にも遊園地があるらしい)
人がまだ行けない場所までいって旗を立てて、これからはここも人間の領域だと自然に対して宇宙に対して宣言すること。

外国人観光客がごった返してゐるうちに、日本人も「世界遺産」を見物するために神社仏閣を訪れるやうになるかもしれません。

マジ、鎖国して欲しいと思わないでもないです。まず、外人より、日本人が、日本の文化を取り戻さなければと思っています。特に自分が。

「noteでの記録✧♡」@あやのん2023/12/23:コメント欄


そんなふうに思ってしまふには、やはり、繰り返し引用してゐる、次のやうな感性、

神社と言う場所は、
どこに行っても、
浮かれた気持ちをひんやりさせる厳かさがあるのが
不思議である

これが、なければならない。




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