言論の自由なんて言はなければよかったのに

日本は「言論の自由といっても、『人の心を傷つける言論』はダメ」といふ社会になってゐて、SNSでも誹謗中傷はダメどころか法律で罰せられることになった。

何を言ってもいいけど、誹謗中傷はダメ。
なるほど、けっこうですね、世の中が暮らしやすくなりますよ、ってみんな思ふらしいが、わたしは、誹謗中傷はダメだと言ひ出した時点で、言論の自由は死んだと思ふ。
ヒトがなんで自由にものを言ひたいかといふと、ヒトの悪口を言ひたいからだ。
わたしたちが言葉に力を感じるのは、人の心を傷つけることができるからだ。
傷つける力が無い言葉には、感動させる力も無い。
人の心を傷つけるやうな言論が禁じられたとき、言葉が持つすべての力が死ぬ。

かうなったのは、最初に、真実に関する思ひ違ひがあるからではないかと思ふ。
真実はrealityではなく、actualityなのだ。
realityであるかとどうかは、最終的に数量化できるかどうかで決まる。

最後まで言葉が纏(まと)はりつくとしたら、それはactualityである。
だから歴史的な真実は歴史家の数だけあるが、歴史的事実と整合する歴史的真実はほとんどない。

したがって、actualityであるなら、誰かの主観と結びついてゐる。つまりは、誰かにとっての真実なのだから当然だ。
この真実、このactualityについては、数量化できないのだから、わたしたちはそれぞれの言葉を使ふことでしか、それが存在することを主張できない。

だから、誰かにとっての真実を語ると、必ずそれを聴いて読んで、別の誰かの心が傷つく。ポジティブな場合は、感動させるといふことになる。どちらにしても、心を動かすのである。

誰かにとっての真実を綴ると、それは必ず、別の誰かにとっては根も葉もない中傷なのだ。

わたしたちは悪口を言ひたい。人にしろ社会にしろ国家にしろ、それらに対して内発的に言ひたいのは悪口だ。だから、言論に関して自由を求める

褒めたり煽てたり、賛同したり迎合したり、ウソを一切言ずにほんたうのことだけしか言はないとしたら、わざわざ「言論は自由だ」と主張したりしない。
自由など要らない。
外部から他人から社会から国家から、求められたことだけを言ふまでだ。

ヒトが自由にものを言ひたい、言ってゐる口を他の誰かにふさがれたくない、言っても国家権力に罰せられたくないときに出てくる言葉は、誰かどこかの人の心を傷つけることのできる言葉だ
さういふ言葉が禁じられたとき、言葉はすべての真実に関して、それを表明し、伝へる機能を失ふ。国家権力によって承認された言葉しか使へなくなる。

これでもうわかるやうに、国家権力とは市民道徳の別名である
プロ市民が象徴するやうに、市民とはヒトを支配したい人たちが支配欲を隠すための自称である

人の身体が内側を取り除いて外側だけの皮を残して、なおかつその生理を保つことか不可能であるやうに、言葉から人の心を傷つける力を取り除いて、その後も、詩を書かうとしても、不可能だ。

誹謗中傷されて自殺する人がゐなくなった世界では、人の心を動かす詩は生まれないだらう。
すでに、消毒されて舐めても安心な便器のやうな言葉だけが小説に使はれてゐる。
村上春樹氏の文章があれほど多くの人に読まれるのも、内部に入った言葉が精神を蝕むものではないからだ。むしろ、市民としての精神を養ってくれさへする。

ちなみに、わたしに言はせると、壁と卵は、観念で現実を白黒に分けてゐるだけのことで、わたしの思ふところのサヨク思想とは、すべてこの思考法から生まれる。保守派と称する人たちの多くも含めて、だから、おそらくわたしのやうなネトウヨ以外は、みんな根はサヨクである。
こころ優しきサヨクたちだと思ふ。



では、何を言ってもいいことにすれば、いいのか?
心を傷つけていいのか?
言葉によって人が自殺に追ひ込まれてもいいのか?

わたしとて市民であるから、そこで「それでいいのだ」とは言へない。
わたしに言へるのは、言論の自由などと言ひだした時点で、わたしたちは永続的に悩み続ける道を選んでしまったといふことだ。

それなのに、言論の自由といへばよいもので、それがある社会は素晴らしいと思ってまったく疑はない人が多いやうにわたしには見える。

建前としてであれ自由社会だといはれてゐる今の日本では、言論は日を追ふごとに厳しく監視され、制限され、言葉はすでにその力を失ってゐる。

人の心を傷つけることのできない言葉だけを口にする人は、決して真実を語らない。政治家はもちろんだが、作家や評論家、宗教家や教師とかいった真実一路を看板にする連中も、消毒済みの言葉以外は口にしない。
戦争は愚行だとか、暴力は何も生まないとか。

消毒済みの言葉、生命を失った言葉、言葉だった物理音は、誰の心も動かさない。単に精神の自慰のため使はれる。ふと目覚めそうになった精神も、そんな・誰の心も傷つけない言葉のおかげで、怠惰な居眠りを再開できる。

この二十年で、どれだけ多くの言葉が禁止されただらうか。
誰にどんな権利があって、言葉を奪ふのかといふと、被害者がその人権をもって禁止するのだ。

「言論の自由のある社会」、ヒトの生きる社会には、そんなものは、実現不可能だ。
なんでも自由であればいいのだといふことで、言葉の使用に関しても、そんな不可能な希望を抱いてしまった。
そんな今、その「言論の自由」が次々と提出する難問が日本人に見えないらしいのは、今の日本が、人権がすべてに優先するといふイデオロギーに支配されてゐるからだとわたしは思ふ。

人権とは何か?
わたしたちは何を人権だと思ってゐるのか?
人権はわたしたちに抱き着いてゐて、その姿を見られまいと必死だ。
人権について、一度、わたしたちの精神にしがみつく人権の手を振りほどいて空にでも舞ひ上がって、空だけでなく、時代も漂ひつつ俯瞰して考察しなければ、言論の自由とはなんであるかといった問題に限らず、今の日本の社会で暮らすわたしたちが何を見ないやうにして何をあるのにないものとしてゐるのかは、この先もわからないと思ふ。

わからないまま考察するので、見栄えがよく毒にも薬にもならない言葉だけが堆積していく。それが今の日本の言論の真実だと思ふ。

正直なところを言はせてもらへば(これも言論の自由なのだらうか?)、noteに溢れる言葉も消毒済みの言葉ばかりだ。おかげで、noteの中では精神の感染症である誹謗中傷の応酬は発生しないで済んでゐる。
健康で快適な言語空間だが、わたしたちの言葉はすべて造花である。
生長することもないし、死ぬこともない。ただ、経年劣化して、凄まじい速さで経年劣化して(多くの人が毎日書くことを目指して、過去に書いたものは本人も含めて誰も見ない・言葉の死物となって)自然崩壊するまでだ。

わたしも、誰が舐めても病気にならないやう神経質に消毒した言葉だけを使ってゐる。
わたしの内発的な言葉は、日記の中にある。


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