ローマ法王、日記の奨め

教皇が「こどもをもうけずにペットを飼育する行為は、『父性や母性の否定であり、私たちを損ない、人間性を奪う』と主張」(Yahoo!ニュースより)したそうだ。

ことあれかしのマスコミが取り上げたい、格好の話題を提供してしまった。

もうたいていの人は何を言ったら
「生命軽視だ」「差別だ」「人権無視だ」などと叩かれるかが
わかってきたから、この手の発言は、頭のネジのゆるんだ(ぼくのような)老人から出るだけになってきた。

老人ではないが、メンタリストのダイゴさんの発言が叩かれたことがある。猫と人の命を同列に論じたとかで。うかつなことだった。

ダイゴさんは猫を飼ってゐるといふより、飼はれてしまった・猫好きとしては当然の末路を辿った人なのかもしれない。

ぼくなどは、人の命より猫の命が大切なのは当たり前のことで、今更、言うまでもないと思っていたから、ちょっとの間、あの騒ぎの意味が分からなかった。

老人のぼくは、そんなふうに自分の偏見に気づかず、
それを公にしてしまうこともあるので、危なっかしい。

昔は、駅のトイレに落書きができたのだが、
今は、落書きがしにくいようになっており、
「落書きは犯罪です」などという、
見つけたら大変な目にあわせてやると暗に脅している、恐ろし気な注意書きもある。

ハイテクの世の中だから、
トイレの中に誰が監視カメラを仕込んでいるかわからない。

ボイスレコーダーを持ち歩いて人の失言を録音して糾弾するのは当たり前になっているのだから、
人権派がトイレに落書きをしているぼくが写った動画を出して告発する日も遠くないだろう。

これを、大袈裟だ、ボケ老人の妄想だと嗤っている人は、時代のイデオロギーに沿って生きて、それで不自由も無い人なのだと思う。

しかし、時代にそぐわない偏見をいろいろと抱えて、絶えずうしろめたさに苦しんでいる人間にとっては、トイレの監視カメラを妄想してしまうくらい、
内心の思想が見張られている時代なのだ。

北朝鮮では、指導者の名前をキーボードに打つと、
「万歳」と続くようになっているという話を聞いたことがある。

この指導者については、
反論、批判、皮肉、嘲笑、無視などは、
思っていても、できないわけだ。

ぼくらの社会でも、こうしてキーボードに向って、
「いじめ、優生思想、アイヌ、女性、弱者、障碍者、移民、ヒトラー」
などの一定の単語を打つと、
それに続く文章は或る方向でしか書けないようにできている。

話が変わるが、ぼくは『赤毛のアン』の愛読者である。

著者、ルーシー・モード・モンゴメリーは、
小説の他に、日記も一生懸命に書いていた。
(以下の内容は、maasa2004さんのブログ記事『モンゴメリー自殺説、その他』に依っている)

モードは、生前、自分の息子に、
自分の日記は必ず出版するように言い渡していたという。
日記ではあるが、
書きっぱなしではなく、推敲もしていたそうだから、
自分に対する備忘録ではなく、
将来、不特定多数の人に読まれることを前提に書いていたのだと、ぼくは思う。

実際、文章は小説に優るとも劣らず素晴らしい。
内容に関して、単に百年前の女性の身辺雑記とみなしがたいものがある。文学の分野以外でも、当時のカナダの社会や文化を詳細に伝える貴重な歴史的資料、という評価も出てきているようだ。

ただし、日記だからといって、そこに事実や真実のみが書かれているとは限らない。
(チャーチルとか勝海舟の日記のことを考えてほしい)

しかも、モードは作家で、モードの書いた日記は作家の日記なのである。
いやしくも作家として生まれついてしまった人間には、たとえ、日記であっても、ありのままの自分や自分の生活を書くことはできないと思う。

モードには、文通相手が二人いたが、彼らに出した膨大な数の手紙も、
自分の死後に出版される『L.M.モンゴメリー書簡集』のどこに収められるか、伝記作家にどういう解釈を与えるかを意識することなしには、書けなかったと思う。

作家とは、そういうものだ。現実と自分の生の乖離をなんとか言葉で埋めようとする。(首尾よく埋まれば、志賀直哉や大江健三郎のように、幸せな生活者となり、その後は、小説は書けなくなる)

作家であるモードの日記は、
モードの私小説とも言える、もう一つの作品と観るべきだ。

没後、何十年も経ってから、やっとその日記は活字になった。

そして、生前のルーシー・モード・モンゴメリーと付き合いのあった人たちがそれを読んだところ、「これは、自分の知っているモードではない」と思ったそうだ。

モードは牧師婦人だった。
その肩書にふさわしく、
地域の人々の心に寄り添い、上品で優しい妻であり、母であったらしい。

しかし、日記の中のルーシー・モード・モンゴメリーは、
地域の人々を冷徹に観察しており、
「忍耐がなく、怒りっぽく、退屈していて、同じコミュニティの人々に悪意さえ持」っていた。「」内は、maasa2004さんのブログ記事より引用。

時代に乗り日々の生活に流され、ものを深く考えようとしない人々に対するモードの怒りや軽蔑。
モードには、自分が生きてゐる時代やその中から一歩も出られない慣習を俯瞰する目があった。作家だからだ。
だから、当然、同時代の人々や地域の住民の言動には怒りや軽蔑を抱くことになる。
けれども、それは密かに日記に書くしかなかった。

温厚な表情と品のある物腰に隠されたそれらの悪意にみちた感情を、
モードの日記の中に見出して、
生前のモードと交流のあった人たちは衝撃を受けたのだ。

法王の発言に戻ると、ぼくは、最初に紹介した法王の発言が正しいと思っているわけではない。
間違っているとも、思わない。
ぼくとしては、立場によって、どっちでも、言えると思う。

どういう社会やどの時代に立つかという意味での「立場」である。

善悪、正誤は、時代や状況に依存している。

そして、人間は或る社会、或る時代にしか生きられない。
或る社会、或る時代には、
必ず、その社会と時代のイデオロギーがあり、それが人を支配しており、
それから外れる者は社会から罰せられるのはもちろん、本人も自分が間違っていると感じる。

或る時代には当然であること、疑いの余地のないことも、
時代が変わると、
その時代の偏見とか誤謬とか呼ばれるようになる。
当然、「正→誤」だけでなく、「誤→正」もある。そういう転換が循環することも可能性としてはある。愛国心などは循環しやすいイデオロギーだろう。

しかし、その実体は、当時の正義でもなければ、後の時代から断罪される偏見でもなく、或る時代の社会の、生体防御機構の働きだと思う。
有機体である社会は、それを蝕む思想を持つ個人を、有毒な微生物として攻撃し排除し殲滅する免疫の仕組みを持っている。

どんなに自由になったとされる社会でも、それが人間の社会である限り、
ルーシー・モード・モンゴメリーが生きた時代と同じく、
少しものを自分で考えたり、少し深くものを感じたりする人が、
ほんとうに言いたいことは、日記に書くしかない。

自分でものを考えたり、深くじっくりと考えると、
社会と時代のイデオロギーの許容範囲を超えてしまうからだ。

ぼく自身を
「少しものを自分で考えたり、少し深くものを感じたりする人」
とするのは、面映ゆいが、
自分の考えることや感じることが社会と時代のイデオロギーの許容範囲に入らないことをずっと気に病んで生きて来た。
ぼくは生まれながらの犯罪者であるのだが、幸いなことにまだ誰もぼくが犯人だとは気づいていない。気づかれたら大変なことになる。
だから、
ぼくが、いわゆる本音として考えていることは、noteにすら書けない。

そうなると、書いたものは「日記」として、
自分の死後に人の目に触れるように計らうしかないことになる。

『赤毛のアン』シリーズで生前から世界に名を知られた美貌の女流作家、牧師である夫、しかも結婚後まもなく心を病んでしまった夫を生涯支え、その一方では牧師婦人として地域に奉仕し人々に愛されたモンゴメリーは、人々の愚かしさに悩まされ狡猾を見抜いて苛立っていた事実については決して口にもできず、小説にも書けなかった。

モンゴメリーは自殺したとも言われている。

モンゴメリーが生きた時代、彼女の本心は時代のお尋ね者であった。
だから、彼女は小説にも勝る熱意と根気を注いで日記を書き続けた。

モードは、ぼくに愛読書を与えてくれただけでなく、
書くことの手本も示してくれた。

彼女は、師であり、恩人である。





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