三歳神話

ヒトは関係の中でしか自己を持てない。

関係を創るには、
自己の他にもうひとり、自分を自己だと思ってゐる他者が必要だ。

ヒトは女の胎内に宿った瞬間から、その女を母親(ママ)として関係を繋がうとする。
ヒトにとっては精神の生き死にの問題であるから必死である。ママとの関係を繋がなかった人は、その後の人生を、構造化できてゐない自己の中に暮らすことになる。

構造化できてゐない自己は、ワタシといふ脳内に宿った幻想の形式をしっかりと保持できない。
自己の内外から声や姿が出入りする。あばら家のやうに、想念と現実との間の障壁が穴や罅(ひび)でいっぱいである。


構造化した自己を持つためには、
ヒトとママ
この二者関係が、その後のすべての関係の出発点であり、自己構築のための礎石(いしずゑ)でなければならない。

どんなに数えきれない関係を作り出した人も、元をたどると、最初の二者関係である
ヒトとママの二者関係
に行き着く。

どれほどこんがらがって見える関係も、丹念に関係の糸をほどきながら辿(たど)ってゆくと、
ヒトとママの二者関係
に行き着く。

どんな関係も、最後は、この・たったふたりの関係、だけになる。

たいていは受胎したときの女がママであるが、さうでないときもあって、そのときは代理ママとなる。つまりは、どう転んでも、ママとの関係である。

ヒトとママの二者関係はありとあらゆる関係の基盤である。

基盤である・最初の関係の在り方から影響を受けてゐない関係は無い。
三歳までに造られた・この基盤は、二度と変へられない。

これが三歳神話である。

厳密には、自分の記憶として思ひだせない自己のときの経験のことを言ふ。
自己を実装するものとして言語が備はってからは、言語による「自己の物語づくり」が始まる。
つまり、自己が想起できる「自分の記憶」といふフィクションが書き綴られることになる。

だから、自己本人が「自分の記憶」として語り得る・毒親との関係などの話は、この神話とはまったく関係が無い。

神話はまだ自己の歴史(記憶といふ文書に残ってゐる自分史)が始まる前の話なのである。


以上は、神話だから、
別に、信じなくてもいいのである。
といふより、信じるはうがどうかしてゐる。
今は、この話を、真に受けてゐる人はゐないだらう。

神話は「お話」であるから、
好きか嫌ひか、感情で価値判断を下していいのである。



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