無数の卵

村上春樹氏の『卵と壁』より

私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けるのです。

次に、三島由紀夫氏の『小説とは何か』より

小説とは何か、といふ問題について、無限に語り続けることは空しい。小説自体が無限定の鵺のやうなジャンルであり、ペトロニウスの昔から「雑駁サテユリコン」そのものであつたのだから。それはほとんど、人間とは何か、世界とは何か、を問ふに等しい場所へ連れて行かれる。そこまで行けば「小説とは何か」を問ふことが、すなはち小説の主題、いや小説そのものになるのであり、プルウトスの『失はれし時を求めて』は、そのやうな作品だった。概して近代の産物である小説の諸傑作は、ほとんど「小説とは何か」の、自他への問ひかけであつた、と言つても過言ではない。

三島由紀夫氏は、かう書いた後、続けて、小説とは何かを模索する作業が小説だとすると、
技術的定義に偏して、重要なる何ものかを逸してしまふ
と注意を促す。

小説は、生物(いきもの)の感じのする不気味な存在論的側面を、ないがしろにすることができない。どんなに古典的均整を保った作品でも、小説である以上、毛がはえていたり、体臭を放っていたりする必要がある
として、江ノ島海獣動物園でミナミ象アザラシを見たときの印象を語り始める。

ミナミ象アザラシは、三島由紀夫氏には
何ともいへない肥大した紡錘形の、醜悪な顔つきの海獣
である。

そして、ミナミ象アザラシの描写を織り交ぜながら、小説とは何かについて語り始める。

その巨体と背景とのバランスを失ひ、全くバランスを失つた巨大さが、見物人を興がらせてゐる。
置かれるべきところに置かれてゐないからこそ珍奇さを増し、風の加減で異臭が人々を閉口させ、とにかくいろんな欠点はあるが、自然が何のためにこんなものを作ったのか、といふ或る莫迦莫迦しい疑問で、人々の感興をそそることをやめない。

少なくともこれは、あの通俗的な鯨なんかよりずっと独創的であり、人々の持ってゐる既成観念に逆らふ点で斬新であり、しかも自然の中に完全に埋没した非社会的存在なのだ。

これを見てゐるうちに、これこそが理想的な小説だ、といふ感じがわたしにはした。へんに鋭敏だつたり繊細だつたりしないのがいい。グロテスクだが健康で、断じてデカダンではない。そしてその主題は、怠惰で肥大した体躯の中におのずから具はつてゐるのだつた。

体臭、動物性、孤独、自然から隔絶されたところでも頑固に保つてゐる自然性、海流に対する紡錘形の形態的必然、会話の皆無と無限の日常的な描写力、人を倦かせないユーモラスな単調さ、押しつけがましい主題の反復、そしてその糞、・・・・これこそは小説であり、小説が人に愛される特質だつた。

現代の小説はこのあらかたを失つてしまつたのである。

半世紀前に、三島由紀夫氏は「現代の小説は、」と言ってゐる。
その後の半世紀、その小説の代表が、わたしには、村上春樹氏の作品だったと思へる。

へんに鋭敏だつたり繊細だつたりしないのがいい

グロテスクだが健康で、断じてデカダンではない

置かれるべきところに置かれてゐないからこそ珍奇さ

風の加減で異臭が人々を閉口させ、とにかくいろんな欠点はある

会話の皆無と無限の日常的な描写力、人を倦かせないユーモラスな単調さ、押しつけがましい主題の反復、そしてその糞

人々の持ってゐる既成観念に逆らふ点で斬新であり、しかも自然の中に完全に埋没した非社会的存在なのだ

村上春樹氏の作品は、三島由紀夫氏がこれこそ理想の小説だとしたところの、かういふ小説の特質とは真逆の諸々が特質だ。

へんに鋭敏だつたり繊細だつたりする登場人物に、村上春樹氏の文体に耐えられる、または、快さを感じる読者は、鋭敏で繊細なために生きづらい思ひをしてゐる自分自身を見出す。
グロテスクだが健康で、断じてデカダンではないといふミナミ象アザラシとは逆に、さまざまな退廃と不健康によって「私が私であること」を主張する登場人物たちと読者は自分を重ねていく。

さうすることで、村上春樹氏の作品は、常に時代にとって時代のイデオロギーにとって市民にとって置かれるべきところに置かれてきた。
風の加減で異臭が人々を閉口させるどころか、どの作品でもページを開いたとたん、読者となった人は、鼻をつっこんでその馥郁とした香りを吸ひ込んで陶然となる。
そして、村上春樹氏の作品を読んだ人は誰でも、他の読者と作品について語り合ひたくなる。
つまり、村上春樹氏の小説は、決してミナミ象アザラシなんかではなく、環境破壊やアニマルライツや食の健康などに対して意識の高い人ならきっと好きなはずのあの通俗的な鯨なのだ。
ミナミ象アザラシの写真を見せて誰かに語りだしたら、きっと気味のわるい人と思はれて世間を狭くしてしまふだらうが、鯨ならかへって交友関係が広がるに違ひない。

人々の持ってゐる既成観念とは、
自由、個人、人権、民主主義、誰とも違ふ私自身(と思ふことで「みんな」の一員になれるわけなのだが)などといったものだが、これらに
逆らふ点で斬新な部分は皆無だ。
しかも自然の中に完全に埋没した非社会的存在とは逆に、きはめて都会的であり、つまりは、社会の中に完全に埋没した社会的存在としての登場人物ばかりだ。
かつては気ちがひは非社会的存在だったが、今、心を病んでゐるといふことほど、社会的存在はない
個人であり人たちは、自分になんらかの精神障害の診断がつくことを望んですらゐて、ところが鬱病では鬱病を経験してない人のはうが珍しくなってしまったので鬱病だけでは精彩を欠く雰囲気になって来てをり、広汎性発達障害とか大人の発達障害とかASDとかADHDかの診断をもらふと必ずSNSの自己紹介に加へる。

村上春樹氏は、『卵と壁』の中で述べた、自分が小説を書く究極の理由、
個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです
といふ宣言によって、三島由紀夫氏が理想の小説として描いたものをすべて否定することになる。
つまり、

体臭、動物性、孤独、自然から隔絶されたところでも頑固に保つてゐる自然性、海流に対する紡錘形の形態的必然

これらは、
個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てる
と、跡形もなく消えてしまふ。

残るのは、無数の卵である。

卵になれば、個人でありたいと願った人たちが求めた個性、自分自身であることも消えてしまふ。

なぜなら、実は卵と化そうとする人たちの・個人でありたい、自分自身でありたいといふ願ひは、現代の都市化した世界で生きるわたしたちが避けられない孤独な実存から、かつての共同体の中の集合的な実存、つまりはひらたく言へば「みんな」の中に入り込むための唯一の方法だからだ。私たちが抱へる「誰とも違う自分自身」とは、「個人」や「自分自身であること」といふ言葉には納まらないところにある、なにものかである。
したがって、今なら誰でも理解できて「わたしもさうです」「わたしもそれを目指してゐます」と頷き合へる個人や自分自身といふ言葉では捉へられなくなってゐる、なにかである。

三島由紀夫氏は、それをこんな言葉で描写した。

体臭、動物性、孤独、自然から隔絶されたところでも頑固に保つてゐる自然性、海流に対する紡錘形の形態的必然

作家によって描写される言葉は異なるし、それが、それぞれの作家の文学的世界を創り出すはずだ。
文学は、さういふ孤独な実存に、作家が、何らかの言葉を与へやうとする試みであるはずだ。



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