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謝罪 類友の中傷 娼婦を助ける神 公正の心定まらぬ者 偽悪の振りで予防線を張る偽善者

1、類は友を呼ぶ
職業差別をしている発信者について。
職業差別の言動をしている発信者の全員に対して言う。
金を稼いでいるから自分の方が正しいと思っていると、誹謗中傷をする人間が近づいてくる。
金を払えば何をやってもいいと思っていると、同じように金を払えば何をやってもいいと思うマナーの悪い人間が近寄ってくる。
本が売れたから自分の方が正しいと思っているから、誹謗中傷をする人間が近づいてくる。
マウント人間にはマウント人間が近寄って来る。
不道徳な人間が近づいて来ないようにするには、自分が道徳的になって、相手にも道徳的な態度を要求する必要がある。
そうすれば、不道徳な人間で改心したくない人間は離れ去る。
金を稼げているから不道徳な人間を排除できると思っているのは、物事の因果関係を理解できていない考え方である。
不道徳な人間を排除したいと思っていながら、自分自身が不道徳なら、自分自身という不道徳な人間を排除できないけど、コントでもやっているのかと思う。
〇〇は俺の方が上だから俺の方が正しいという考え方をしていると、△△は俺の方が上だから自分の方が正しいという考え方をする人間が近づいてきて、争いになる。
侮辱や誹謗中傷をしている発信者に、誹謗中傷する人が近づくのは、自業自得である。

逮捕されないなら何をやってもいいと考えていると、同じように逮捕されなければ何をやってもいいと考える人間が近寄って来る。
発信者は自分が逮捕されていないからギリギリで他人を侮辱していいと思っているから、誹謗中傷する方も逮捕されないギリギリなら発信者を侮辱していいと考える。

人間は不思議なモノで、立場・言葉遣い・礼儀作法が全く違っていても、自分の同類は嗅ぎ分ける能力がある。
類は友を呼ぶ、というコトワザは真実だ。
何かそういう雰囲気が体から煙みたいに噴き出しているのではないかと思うぐらい、簡単に見破ってくる。
俺も聖書を読む前は他人を見殺しにする性根の腐った生き方だったから、何となく性根の腐っている人間かどうか見分けられる。

悪人が悪人を排除する事は不可能である。
悪人を排除したいなら、自分が善人になって、悪人に対して道徳的な善の生き方をするように説教する必要がある。
そうすれば、悪人は改心するか、居たたまれなくなって逃げるか、どちらかになる。

2、自己中な望み
自分が悪人なのに善人と付き合いたいなんて、善人からしてみたら迷惑千万であり、百害あって一利なしである。
迷惑千万とは、この上なく迷惑な事。
よくもまあ、そんな有害無益な考え方ができるモノだ。悪人だから、そういう自己中な考え方をするのだろう。
悪友が居てくれたら「お前、悪人の癖に善人と付き合いたいのか。お前みたいな悪人と付き合って善人に何のメリットあるんだ。善人だって善人と付き合いたいわ」と叱りつけてくれる。
その発信者は、自分が善人だと思っている悪人だから、悪友すらいないのかもしれない。
自分の事を悪人だと思っている悪人なら、悪友が付き合ってくれる。
聖書でも、ならず者という極道が士師に協力して活躍するから、悪友や悪人と呼ばれる者でも、改心して神に立ち帰って天国へ入れる。
しかし、「自分の事を善人だと思っている悪人」のファリサイ派は地獄へ落ちる。
偽善者とイエス・キリストに酷評されるのがファリサイ派である。
律法学者の一人は、正しい事を言って、イエス・キリストから「あなたは天国から遠くない」と褒められた。

3、成功と正当
成功は正当性を保障しない。
金を稼げるといっても、今の時代はロクでもない性根でも、体が動かせるなら、それなりの給料をもらえる時代だから、悪い性根の人間の金を貰って稼げたところで、道徳的に正当にはならない。
麻薬マフィアだって大金を稼ぐけど、正当性はない。
悪人から活動資金を貰っても善人にはなれない。
他人の欲望を刺激して気持ち良くするのが上手いだけで、何で自分が正義だと思えるのか、不思議である。
他人を堕落させる商品や言葉で金を稼いでも、何の手柄にもならない。
まともな親なら、子供が他人を堕落させて金儲けして正当だと主張するふざけた考え方したら、ぶん殴って躾け直す。
まあ、その発信者の親が職業差別をしているから、周りのまともな人間を毒親が追い払って、正常な価値観を学べなくなる。

4、無責任な毒親
発信者の毒親は、奢って貰いたい感情を娼婦の考えなんて言って、娼婦と奢られたい気持ちに何の関係があるのか全く説明しない無責任である。
無責任だから職業差別をするのか。
職業差別をするから無責任になるのか。
もしかして、神が職業差別をしないのは、職業差別をすると無責任になるからなのだろうか。
大勢で職業差別できそうな状況になると、思考停止で無責任になる。
娼婦を侮辱して良いと思っているから、こういう無責任な発言ができるのだろう。
論理的な正しさよりも、虚栄心を優先しているから、こういう無責任な発言をしてしまうのだろう。
娼婦と奢られたい感情を同一視したのだから、説明を求められる前に、自分から因果関係を説明する義務があるのに、差別心があるから思考停止になって、無責任になって説明責任を自覚できなくなる。
偉そうな毒親は、大学で何を習ってきたのか。差別を習ったのか。大学の恥さらし。

5、不安定な人生
数字で優劣を判断する人間が近くに居るとシンドイから、まともな神経の人は離れていく。
数字が好きな人間だけを周りに集めると、リスキーシフトになって暴走して破綻する。
数字で優劣を決めるのは、他人の大衆からの評価で優劣を決めるから、安定しないため、ウンザリしてくる。
道徳を基準にすれば、評価の基準も安定するから、その安定した基準に合わせて努力すればいいだけだから、ストレスにならない。
神を基準にすれば、安定した聖書の基準に合わせて努力すればいいから、ストレスにならないため、幸せになれる。
他人の気分を基準にした生き方なんて、危なっかしくてやってられない。

この世の富は神の創造したから、人間は神から貰っているだけ。
客のおかげとか、金は客のモノとかいう考え方は、サタン側が神の存在を人々に気付かせたくないから、神のモノである富を客のモノにすり替えた。

6、他人に口出し
発信者の悪行も、普通なら友達が叱ってくれるけど、友達の話を聞かないで、毒親の言う事に従うから、まともな友達は縁切りする。
無責任な口出しをしていると、警察に逮捕されるか、本当の悪人と衝突して破滅するか、どちらかの末路しかなくなる。
他人に口出しをして、まともな人生になるわけがない。
俺は神にエゼキエル書33章で「警告しなさい」命令されているから、たとえ死んでも殉教になるから、別に構わない。
神に立ち帰る人生になるように他人に諭すのが、信者の人生である。
率直に同胞を戒めなさいとも書かれている。

心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

レビ記 19章17節 新共同訳

悪人に対して、信者なら常に率直に叱ってくれるけど、非信者だとメンドウだから悪人を縁切りして見殺しにする。
悪行をしたら殴ってやらないと改めない奴なんて、付き合いがメンドイ。
ましてや、叱っても改めない奴なんか、信者だって縁切りする。

ヨハネの手紙二 1:10 (新共同訳)
この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません。

信者は、相手が改めるなら7の70倍まで赦す。

マタイによる福音書 18:22 (新共同訳)
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

「七の七十倍」とは、無限に赦すという意味だ。

7、職業差別と不安定な感情
神の教えを諭すなら、不道徳的な奴らは立ち去る。
神の教えを諭すなら、悪魔のサタンは逃げていく。

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。

ヤコブの手紙 4章7節8節 新共同訳

数字で優劣を決めるという他人の評価で左右される生き方は「心の定まらない」生き方である。
「心を清め」て、他人の評価に左右されない生き方になる必要がある。
「心の定まらない者たち」は、大勢で職業差別できそうな状況になると、思考停止で無責任になる。
だから、神であるイエス・キリストは職業差別をしてはいけないと行動で示す。

俺は聖書を読む前は、他人がどんな職業に就いていようが、俺の人生に何の関係もないと思うから、俺は他人の職業なんかどうでもよかった。
神であるイエス・キリストは、娼婦を差別しないで、立ち帰えるから助けるため、俺も職業に関係なく人々が神に立ち帰るように助ける。
神が「職業で助ける相手を選り好みしない」ように、自分も「助ける相手を選り好みしない」で、神の教えを諭していく。
天国へ入る方法を教えて助けていく。

多分、イエス・キリストが娼婦(姦通の女・性病の女)を助けたのは、いつの時代でも娼婦は存在するし、いつの時代も娼婦を差別するのが大勢だから、娼婦を助ける人なら、どんな職業の人間でも助けるからだろう。
神に立ち帰る者なら、娼婦をキチンと助けたり批判する。
信者かどうかを見極める基準が、娼婦に対して変な判定をしない事なのだろう。
本当の信者なら、娼婦が良い事を言えば褒めるし、悪い事を言えば叱る。
娼婦が悪い事をしても煽てる買春男は論外である。
娼婦が良い事をしても見下す差別者も論外である。
買春男も差別主義者も同類である。こういう人間たちは、世論がコロコロ変わる度に考え方がコロコロ変わる「心が定まらない者」なのだろう。

8、心が定まらない者
平等とは、娼婦が良い事をしたら褒めて、娼婦が悪い事をしたら叱る、という態度の事だ。
相手の肩書によって態度を変えるのは「心が定まらない者」である。
娼婦が良い事をしても見下す癖に、権力者が良い事をすると褒めちぎるようなのは、心が定まらない者である。
娼婦・身内・権力者などが同じ言動をしても、相手の肩書によって言う事をコロコロ変える人は、心が定まらない者である。
神は悪人にも善人にも平等に公正に雨を降らせるから、信者も公正に他人を評価する必要がある。

9、犯罪は一生
犯罪すると、人生か命をドブに捨てる。
数年で昔の事と言って無罪を主張するような軽々しい考え方をしているから、軽々しく犯罪をして、人生か命をドブに捨てる。

注意一秒ケガ一生。
犯罪一回後悔一生。

10、芸能界の独占
客は、芸能事務所が「用意する」「売り出したい」タレントを応援するから、客がどのタレントを応援するか決められない。

芸能学校が芸能界を独占するのは、良くないと前に書いたけど、工業なら特定の企業が生徒を雇ってもいいと思う。
世の中にそういう工業高校がある事を知らなかったから、間違った事を書いて申し訳ありませんでした。

ただ、芸能界のように利権が大きい業界で、特定の会社が芸能学校を作って独占するのは、悪影響が大きいからダメだ。
せっかく徒弟制の属人化を根絶したと思ったら、特定の会社の属社化してしまったら、何の意味もない。
それどころか、「属人化の悪いところ」と「属人化を廃止にした悪いところ」の両方の悪いところを合わせた状況になる。
その両方の悪いところを合わせたのが今回の事件なのだろう。

11、偽悪の予防線
偽悪の振りをして、自分が善人だと思っている、その実は悪人が存在する。
職業差別をする発信者は、金儲けで他人の悪口を言っていると偽悪を気取るけど、自分の事を善人だと思っている、その実は悪人である。

ここまでややこしいと、メンドウである。
偽善者よりメンドウだ。
偽悪の振りをした偽善者。

偽悪の振りをすれば善人扱いしてくれると思っているところがセコイ。

毒親の顔色を窺っているから、こういうせせこましい事をやる。
悪友すら見放すから、ここまでセコイ人間になる。
悪人として扱われても対処できるように、偽悪を気取って予防線を張っているところがセコイ。

予防線
敵の攻撃などに備えて、あらかじめ講じておく警戒監視などの手段
あとで失敗したり非難されたりなどしないように、前もってうっておく手段。「あとでつけこまれないように—を張る」

goo辞書

逃げを打つ、撹乱する、煙に巻く、本筋を逸らす、はぐらかす、言葉巧みにごまかす、などの言い方がある。
こういう人間と深い付き合いはできない。
ドンドンとフラストレーションが蓄積される。

12、自分の性根
俺は、サタン社会に取り込まれなくて良かった。
もし、虚弱体質でなければ、半端に就職できて取り込まれた。
もし、知能がもう少し高いと、就職できて取り込まれた。
もし、毒親でなければ、就職できるように手を尽くしてくれて取り込まれた。
もし、就職難でなければ、就職してしまって取り込まれた。
取り込まれて、それなりの社会的地位を惜しんで、神に立ち帰らないで、地獄へ道連れにされていた。
俺は社会的地位を失うのを嫌がる腐った性根なのは自覚している。
聖書を読んでから、少しずつだけど、他人の心配をしたり、天の主のおかげで性根が改善されてきた。

毒親は、俺の虚弱体質の障害を受け入れない無責任だ。
毒親は、俺の知能の低さを受け入れない無責任だ。
毒親は、問題を先送りにして、結局、人生は破綻したけど、サタン社会に取り込まれなくて良かった。
俺を虚弱体質で低知能で毒親育ちで就職難の時代に創造してくれた天の主に感謝している。

13、名指しの無駄
悪い言動に対して叱るけど、特定の個人を名指しにはしない。
名指しをしても、逃げたり、整形したり、ボイスチェンジャーを使ったら、無駄になるからだ。
あの偽装キリスト教団の首魁みたいに偽名かもしれないし、名指しは意味がないから、言動に対して糾弾する必要がある。
悪い言動をする全員に対して糾弾したら、目的の人物にも当たる。
名指しにすると、訳の判らない野次馬がしつこく煽るから反省できなくなる。
だから、悪い言動を改めるなら、それ以上の糾弾はしない。

とっくに死んだ人間に対しては名指しにするかもしれないけど、それもケースバイケースである。
罪を憎んで人を憎まず。

14、時効
時効は、自首して、警察などの罰を受けて、身を清めるチャンスだから、逃げたらチャンスを失う。
時効を免罪と思うのは間違いである。
時効を過ぎると、もうリンチ・私刑だらけになって、警察が代わりに罰してくれなくなるだけ。

15、努力の要求
他人に努力を要求するのは、やめた方がいい。
他人に対して、自分に貢献する努力を要求している時点で人間関係が破綻している。
他人がお前に貢献して何のメリットがあるのか。

神に対して努力するのを求める必要はある。
努力は、神に対するのだけが大事だ。
神以外に努力しても無駄。
同じ神を信じる者同士で助け合ったり、努力し合うのは大事だ。

16、謝罪
前に写真を撮る人権活動家について批判したけど、タレント気取りで自分一人でポーズをとって写真を撮る自称人権活動家に対して批判しているだけだから、まともな人権団体については糾弾していない。
ちょっと紛らわしかったから謝罪する。申し訳ありませんでした。

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