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人のせいにしている自分に気づけるか

以前のコラムで「人のせいにする人の特徴」について述べました。

クレームを言ってくるお客様への不満、関係がうまくいかないスタッフたちへの不満、上司の関わり方への不満、そこからの「何もしてくれない組織」である会社自体に対しての不満。

全ては自分とのつながりの中で発生している不満なのですが、向く矢印は相互方向にではなく、常に一方的に自分から相手に向いて鋭く発されていきます。

前回と同じような結論になってしまうとは思いますが、こういった不満の矢印を外へ向けていく人の在り方と、どうしたらそんな自分に気づけるのかということについて、あらためて考察してみたいと思います。

まず、この不満の矢印が外に向くか、自分自身に向くかというのは、「外的志向」か「内的志向」かという分け方ができます。


外的志向とは「相手が自分に何をしてくれるか」という、相手に求める気持ちの在り方。

  • 求めた要素が得られないと、「相手は何もしてくれない」と不満の種になります。

  • また、自分の立場から一方的に相手や問題を客観視しますから、相手や問題と自分を切り離して考えますので、全て見えている(と自分勝手に思い上がっている)自分が、ダメな相手やダメな問題(と勝手に決めつけた対象)を見下します。

  • その姿勢は驕りへと通じ、批判の目は自分以外の要素へ向き、相手への怒りや現状に対しての不満といった形で表出します。


内的志向とは「自分が相手に何をするか」という、相手に与える気持ちの在り方。

  • 自分から相手に与える要素が少ないと、「まだまだ何も貢献できていない」と内省の種になります。

  • 「自分と相手や問題との関わり方」を客観視しますから、日頃の自分がどのように人や問題に向き合っているのか、選んでいる態度や姿勢など、自分の立ち位置や在り方をもうひとりの自分が観察することとなります。

  • その姿勢は謙虚さへと通じ、批判の目は自分と他者との関係性へ向き、向き合う相手や怒っている問題との関りに対しての感謝の想いとになって表出します。

これは私独自の捉え方なのかもしれませんが、何かを相手に求めるという志向性は、引き算のようなもので、「相手から何かを引き抜く」という要素なのだと思っています。

反対に、相手に何かを与えるという志向性は、足し算のようなもので、「相手に何かを付け足す」という要素なのだと思います。

そしてこの要素を、「鏡の法則」に当てはめて考えてみると、相手に何かを求め続ける人というのは、結果として自分からも何かを引き抜き続けており、相手に何かを与え続ける人というのは、結果として自分に何かを足し続けているのではないでしょうか。

常に相手に求める人から飢餓感が消え去らないのと、常に相手に与える人には平穏が訪れているというのは、自分の体験や周囲の人たちの関係性を見ても当てはまっている気がします。

「自分ひとりでは何も生じない、全てはこれまでと今ある関係性の中で生じた環境であり、その中で生かされている自分があるのだ」という認識と、そこからくる周囲の人たちへの感謝。

そして、「今ある環境にまだ改善の余地がある」と感じるようであれば、その気づきは自分自身へと向かい、より謙虚に周囲の人たちや問題に向き合っていこうという姿勢につながるはずです。

こうした認識ができない人が、常に周囲の人や発生した問題に対して怒りの矛先を向けてしまうのだと思います。

今日も読んでくださいまして、ありがとうございます。

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