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言動に悪意をこめる人

前回のコラムでも触れましたが、今回は社内や拠点内においてドッジボールのごとく攻撃を仕掛けてくる人の心理について勝手に想像してみたいと思います。

おそらくは、ほとんどの人はそもそもは相手の行動について気になることがあって、それを是正していただくために指摘しようという想いが前提にあるのだとは思います。

行動を叱るということは、守るべき基準を守っていないから、基準つまり「ものさし」をもって叱るということです。

そして、「叱る」という行為にはレベル感があります。

それは指導なのか、注意なのか、厳重注意なのか。

こういう時にも日本語というのはとても複雑というか素晴らしいというか、𠮟るにしても様々な表現があるのですよね。

叱責する、たしなめる、注意を促す、諫める、諭す

これらは全て柔らかい表現で、例えば「優しく」という枕をつけて向き合うことができる言葉かもしれません。

ところが、同じ叱るでも「𠮟り飛ばす」なんて表現もありますよね。

これは何を飛ばしているのかというと、自分の感情を飛ばしているのかななんて思っています。

感情を飛ばすということは、この時点で叱ることから怒ることの方にシフトしているのですよね。

それから、「お灸をすえる」なんて表現もあります。

辞書には「きつく懲らしめ、戒めること」とありますし、類語では、大目玉を食らわす、雷を落とす、こっぴどく叱る、一喝する、どやしつける、なんてものもあります。

このあたりになってくると、あまり優しさは感じられなくなってきますよね。

結局、薬と一緒のようなものなのだと思います。

「毒も薬も使い方次第」なんて言葉がありますが、容量用法を間違えてしまうと薬も毒になってしまいますよね。

まず、どんな立場やスタンスからものを言おうとしているのか。

注意する相手に、気づいて欲しいという優しさや思いやりの量の方が多いのか。つまりは薬としての分量ですよね。

それとも注意する相手を凹ませたいというような嗜虐性や残酷さの量の方が多いのか。つまりは毒としての分量です。

この薬か毒かの分量は、以前も叱ることと怒ることの違いについて述べましたが、その行動が「相手のためなのか」それとも「自分のためなのか」で大きく変わるのだと思っています。

これは勝手な思い込みというか偏見ですが、自分本位で悪し様に怒りまくってくるような人については、それを見せつけられている周囲からの評判が良かったという人はひとりもいなかったような気がします。

ただ、現実にこういう人は少なくとも組織の中に存在していることがありますから、あからさまに当てつけられる悪意に対して、どのように臨むかということを考えなければならないですよね。

ある意味、ナイフを剝き出しで持っている人と同じです。これが本物のナイフであれば逮捕案件ですが、いかんせん言葉は見えない分やっかいです。

静かにジワジワと刺してくるような人もいたりします。

こういうのは、正面から受け止めてしまうと、精神的なダメージも大きいですし凹まされてメンタルを病みます。

受けて立つと全面戦争となって、エネルギーを消耗して精神的なダメージも更に大きくなりかねません。

なので、善策としましては受けて立たずに無視を決めること、気にかけないこと。

なにせ、こちらのために叱っているのではなく、相手の感情の発露のために好き勝手に爆発しているだけなのです。

自身が集中してエネルギーを注いでいくのは、勝手に騒いでいる対象ではなく、こちらのことを一緒に考えてくれる仲間に対しての方が健全な過ごし方だと思っています。

景観の良い大自然を観に行って、目の前にある大パノラマ(仲間)に意識を向けるのか、それともその景観の片隅の道端に落ちている糞(自分にとって不快な存在)に意識を向けていくのか、どちらの方が有意義な時間の使い方かどうか、という酷い例えだと伝わるでしょうか。

ですから、私の最善策はというと、「こういう口撃をしかけてくる人がいる」という自分がされている実態を、仲間内に対して大いに騒いでいくというのが、結果として受ける悪意を薄めていったり、それほど意識したりする必要がなくなっていくのではないかなと思っています。

今日も読んでくださいまして、ありがとうございます。

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