アドラー心理学

原因論者/環境や遺伝で人生が決まる

表題の件自分なんですけどそれってどういうこと、なんでそうなるのと考えてみたので書き残して置きます。

最近生活していて自分から抜け出せない自分が嫌いな反面そんな自分を肯定して生きようとしている自分がいます。それはさておきなんで自分から抜け出せないのか考えるとそれは周りに自分を開示できないからです。なんで自分を周りに開示できないかというと周りの人への信頼がないからです。まただらしない自分甘ちゃんな自分そこまで頭がよくない自分おもしろくない自分を認識しているからでもあります。ではなぜ周りの人を信頼できないのか、なぜ自分を客観的に認知していながら変えようとしないのか。前者に関してはもともと人間不信だからです。なぜ人間不信なのかそれは幼少期に育ってきた環境にあります。なぜ幼少期の経験に原因があるのかそれは人間は10代後半までどのように過ごしてきたかでかなりの部分が決まってしまうからです。10代後半以降も変わることはできますが根本から人間を変えることは決してできません。それはなぜか。根本的に変わろうとすると超人的なストレスがかかりそのストレスに耐え続けることはよっぽどのことがない限り不可能だからです。短期的数カ月の間ならできます。しかし1年、2年とそのストレスに苦しみながら自分を傷めつけながら生きるのは凡人には不可能なことです。

少し話を戻し人間はどんな経験をすると人間不信になるのか考えてみます。一つあるのが信頼していた仲間から裏切られることです。心を許し自分を開示していた仲間からの裏切り行為は自分の人間性や存在を否定することになります。また裏切られたくない自分という人間を否定されて傷つきたくない想いから人に期待しなくなります。人を信じなくなります。本当は興味があるのに人に興味がないふりをしている内に本当に人に興味がなくなってきます。これは非常に恐ろしいことですが僕がそうです。

人間は社会的な動物だとはよく言われます。確かに太古の昔から狩猟採集稲作どれをとっても一人ではなし得ないことでしたし仲間がいなければ飢え死んでいました。人間は生存するために仲間の存在を必要としていた。だから人間は社会的な生き物だと思います。狩猟では特に仲間を信頼し仲間に背を任せ獣に向かっていった稲作も仲間を信じて役割分担し自分の担当を全うすることだけに集中することができた。人間は生きるために人を信頼することを必要としていたのだと思います。しかし現代は生きるうえで人を信頼することは必ずしも必要でなくなってしまいました。一生親のすねをかじって生きていくニートなら誰も信頼せず親の無償の愛と支援を受け続けていれば生きていくことは可能ですし、起業してパソコン一つで稼げるようになれば人を信頼する必要などなさそうです。しかし人を信じることができないと生きることはできても幸せになれないのだと思います。そのように人間にプログラミングされているんだと思うんです。セックスに快楽を感じるのと同様に生存のために必要なことに関して人間は幸福を感じるようにプログラムされていると思うのです。だから過去のトラウマで人を信じることができなくなってしまった人間は不幸になりやすいのだと思うわけです。

過去に原因を求める人間や自分はなんてかわいそうな人間なんだと被害者意識の強い人間はどうしてそうなるのか。過去のトラウマを乗り越えて今を生きている人間がいることに反して。そもそも過去を乗り越えられない人間と克服できた人間のちがいは何か。過去を克服できている人間は強く偉いのか尊敬の対象なのか。僕は全くそんなことは思わない。なぜなら過去を克服できた人間はその人間自体が優れているわけでも偉いわけでも強いわけでもなく、たまたまその人間が出会った人間がすばらしい影響をその人間に与えたに過ぎないからだと思うし遺伝子レベルで作りが違かっただけだと思うからだ。過去を克服できない人間は逆に人の出会いに恵まれてこなかっただけ幸せに生きることがでいる遺伝子を引き継ぐことができなかっただけ。生まれや育ち環境でその人の人生や幸福度が変わってしまうのは何とも不合理なことではないか。そんなことがあっていいのだろうか。

大学時代に印象的なエピソードがある。教授がクラスのメンバー40名に聞いた。この中で近くのコンビニまで30分かかるようなド田舎出身の人は手を挙げて。僕は早慶以上の大学出身者だ。教授の問いかけの結果は一人もそのようなド田舎出身の学生がいなかった。強引かもしれないがド田舎に生まれただけで遺伝も何も関係なしにその時点で早慶以上の大学に行くことはできないということになる。生まれ落ちた場所でキャリアが決まってしまう。こんなばかげた話があるか。

その逆もある。小さい頃からサッカーが好きでサッカーだけやっていたかった。地元の友達も大好きで大好きなみんなとサッカーをやっていることが何よりも幸せだった。しかしそんな子供が生まれ落ちた家庭は勉強に非常に厳しい家庭だった。みんなが土日遊んでいるのに遊びに行くことを禁止され親が付きっきりで指導しやりたくもないことをひたすらやらされ歯向かうと言葉では何一つ説明してくれず力で押さえつけられた。そのくせ少し自分の言葉が足りず浅はかなことを言ってしまうと指で頭をつつきながら考えろと偉そうに言われた。思考力のない人間が自分より思考力のないうぶな人間を自分のコンプレックスを埋めるかのように押しつぶす。家庭以外の人間関係に疲れ人付き合いを良くすることでしか周りから認められなかった人間の自尊心を補うための道具にされてきた。相手のためと大義名分を掲げ自分の欲望を満たすことしか考えていなかった人間の子供として生まれた。生まれ落ちた親によってその子の人間性や幸福度が決まってしまう。こんなばかげた話があるか。

生まれ落ちた場所や環境・親によってその人間の将来が決まるような社会ではなく誰もが均等に機会が与えられ自分らしく幸せに生きることができる社会がくることを切に願う。

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