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「生きる」を考える

ハイサイ。
昨日メガネを新調しました、五木田穣ごきたゆたかです。

丸メガネにしました🥸

さて、6年前に、こんな記事を書いていました。

ちょっと鮮度が落ちてるようにも感じますが、この記事で伝えたかったのは、当時「働き方改革」とか言われるなかで、その言葉に違和感があったから。

今読み直して思ったことを、書いてみます。

働き方改革とか、全く関係ない話になりますが(笑)

あちこち話が飛びますが、何か引っかかるところだけ、引っかかればいいなと思っています。私、そういう思考の人なので。

「在り方」「生き方」「働き方」

大切なのは「働き方」ではなく「生き方」です。
どう生きたいか、どう生きるかがあって、
そのための手段として「働き方」がある。

さらには、どんな自分でありたいかという「在り方」があって、
そのための手段として「生き方」があり、
そのための手段として「働き方」がある。

この3つは並列に考えるものです。

どれか1つでは足らないし、何かバランスを崩したものになってしまいます。この3つはつながっている。心と体と魂のように、3つで1つです。切っても切り離せないのです。

西洋思考と専門性の限界。知識と見識の違い。

なんでも切り離して考えようとするのが、西洋思考です。

西洋思考は「分断」がベースにあり、「専門性」を追究します。分けたものを細かくみることで、確かに専門性は高まりますが、分けたものをどんなに細かく見たところで限界があります。

縦に掘っても、掘れる範囲には限界がある。まず、1つの専門性を追究するのは良い。でも、必ず行き詰まる。そこから、横に掘る・別の専門性を追求することで、世界が拡がるのです。

理想的には、最初から一つの穴をただ掘ろうというのではなく、全体像を把握してから、まず「この穴を掘ろう」と考える。じゃあ、なぜこの穴からなのか?隣の穴が掘りやすそうだからとか、人生という計画の中で、どう穴を掘っていくかとう話です。穴が深く、広ければ、土台は強く大きくなり、強くて丈夫な高い建物を造ることができます。

人生においてのパフォーマンスピラミッドは、土台としての専門性というか、「知識」をどれだけ積めるかです。知識を積むのは、穴を掘る作業。得た「知識」をベースに、実際のアクションを起こしていく。それを「見識」と言います。

建物を建てるのは「見識」にあたります。
知識を詰めこむだけじゃ、穴掘ってるだけですよ。
しかも、その穴小さくない?深くもなくない?

「知識」とは、ただ知っていること。
「見識」とは、物事の本質を見通す力があること。
「胆識」とは、見識に判断力と実行力が備わること。

人それぞれ身の程というか、ちょうどいい範囲があります。
住む家の大きさも自分に合ったサイズがある。

知識は浅くても、広ければ、それなりの平家一戸建てくらい建てられる。
1つの知識が深ければ、土地は狭いけど、ビルが建てられる。

まず、広い土地があることを見極め、計画的に穴を掘り、建築を進めていけば、歴史に残るような建造物、ピラミッドが建てられる。私はピラミッドを建てたい。

どこを目指すかは人それぞれではありますが、そもそも、どこを目指しているのかすら、分かってない人の方が多いのではないでしょうか。本当は戸建建てたかったはずなのに、ビルになっちゃうみたいな。

狭い土地には、狭い建物しか建てられません。何階建てにしようが、狭いものは狭いし、世界は狭い。最初に土地を確保するぞという発想から入らないと無理。前提が大事。

自分の人生を生きる

働かされるのではなく、働きたいから働く。
生きたいから、生きる。
こう在りたいから、こう在る。

自分の意志で、生きる。
自分の価値観で、生きる。
自分の人生を、生きる。

主体的に、積極的に、自分の人生を生きる。
大いなる力によって「生かされている」んだけども、
ただ「生きてる」んじゃなく、この命を全うする。

命の火を灯せ

「命の火」を燃やし続ける。今は「風の時代」に入りました。
みんなが風に押されて、自分の命を燃やしやすくなりました。

ですが、生きていれば、つらいこと、悲しいこと、しんどいこと、いろいろあるでしょう。時に、逆風が吹く時もある。でも、その逆風は、あなたの命の火を強くする風なのです。「火」は「風」をあてると強くなります。あなたの命の火が、人生が、風にのり、燃え上がっていくために。

風に消されるような強さの火ではないですよね?火元をしっかりと持つ。火種をしっかりと持つ。それはあなたの「想い」です。火元が強い人は、風の時代に後押しされるでしょう。

「風の時代」かと思いきや、今は「風邪の時代」のようですが🙄

同時に、火には癒しの力があります。特に、この時期は強く感じますが、焚き火やキャンプファイヤーです。火には、人が集まるのです。あなたが強い火を灯していれば、そこに人が集まるのです。火が弱ければ、人々は集まってきません。ですが、火は分け与えることもできるのです。隣の人から火を分けてもらえるのです。

市販のライターで火が起こせるでしょうか?起こせたとしても長続きしませんし、何を火種にするとか、そういうのもわからないといけません。火起こしするには、やり方がある。同じように、自分の魂の火を起こすのにもやり方がある。すべては1つ。真理は1つです。

火=陽=木=霊=人=ひ

ちなみに、「ひ」という言葉は、日本人にとって、とても大切な言葉です。元々自然崇拝のアニミズム的文化を持つ日本人は「太陽信仰」がありました。ひと昔前は、毎朝、朝陽に向かって拝んでいたものです。

初日の出とか観にいったことがある人は実感したことがあると思います。
太陽の光によって、浄化されていくような力を。
太陽の光によって、生命力がみなぎってくるような力を。

「ひ」は「陽(ひ)」なんです。

天照大御神を信仰するのも、大日如来を信仰するのも、そこに、太陽神をみたからです。(天照大御神も大日如来も、言語化したものに過ぎず、本来は太陽神です。太陽神も言語化してしまっていますから、太陽そのものに畏怖の念、感謝の念を抱くのが本来です。)

また、人類が進化したのは「火」を使うようになったからです。その時代、「火」をつくることができたのは「木」から、もしくは木から落ちた葉からです。「火」を生み出す「木」を、神のように崇めるのも分かりますね。そこから「御神木」という発想も生まれてきました。

太陽にも木にも、そこに大いなる霊性を感じていた。「霊(ひ)」です。神道では、「産霊(むすひ)」という概念が重要視されます。「霊(ひ)を産みだすもの」に神聖さを感じ、大切にしてきた。生かされていると感じ、感謝してきた。

「陽」=「火」=「霊」です。「ひ」という言葉にはそう言う意味が含まれます。「ひと」の「ひ」も本来は、霊力が宿るひとのことを指します。そういう神聖さ、神々しさが本来の「人」にはあったはずです。

人は、光を放てるのです。
人は、明かりを灯せるのです。

一燈照隅。万燈照国。
一つの灯火を掲げて一隅を照らす。
そうした誠心誠意の歩みを続けると、いつか必ず共鳴する人が現れてくる。
一灯は二灯となり三灯となり、いつしか万灯となって国をほのかに照らすようになる。
だからまず自分から始めなければいけない。
そのためには自分自身が明りにならなければいけない。
それは手燭を持つことではない。
そんなものは吹き消されたらそれっきり真っ暗になってしまう。
そうではなく、自分自身が発光体になるのだ。
(安岡正篤)

自ら明かりを灯す光となれ

人自体が「ひ(霊=魂)」であり、誰かを照らす存在(陽)であり、誰かを支える存在(木)なんです。

あなたの「命の火」「命の陽」でもあります。誰かを支え、照らすために、あなたの存在がある。自分で感じてなくても、現実として起きている。

あなたが生まれたことによって、両親・家族が照らされました。
まさしく希望の光と思えたことでしょう。

今あなたが生きていることで、あなたが働いていることで、救われている人が必ずいます。誰かの役には必ず立っています。

働いていく上では、そこに使命感を感じ、この与えられた命をどう使っていくか、自分の軸、価値観を持つということが大切です。

働く=奴隷労働搾取システム

そもそも、「働く」と言う概念は、西洋社会によって、奴隷システムによって、作られたものです。

本来の日本社会には「働く」という概念がなかった。村を営み、農作業に励み、ただただ感謝して過ごしていた。年貢を納める(今でいう税金)というのは、奴隷システムです。支配者が生まれ、搾取する側、搾取される側ができた。

もっと初期から言及すれば、農業社会が始まってから、全ての支配が始まった。富を得るものが現れた。村の主に、米が集まった。そこから階層社会が始まった。

縄文時代には、支配という概念はなかった。すべて共有されており、共存し、共栄していた。争いがなかった。奪い合いがなかった。だから、1万年以上も続いた。

稲作が始まったとされる弥生時代は500〜600年くらいしかありません。(真実は、弥生人っていないんだけど)

それが事実であり、
本当に栄えていたのは、縄文と弥生どっちでしょうか?
弥生時代と言われるものは優れていたのでしょうか?
現代社会は優れているのでしょうか?

産業革命が起きてから200年ちょっと。もう滅びようとしてます。サステナブル?持続可能な社会?であれば、縄文に学べ。縄文の価値観に回帰せよ。縄文の在り方生き方働き方に回帰せよ。

とはいえ、現段階として、今を生きてる我々は、今は今のシステムの上で、生きやすさを生み出していくしかありません。

行き抜いて、息抜いて、生き抜いていく。

自分のことは、自分で決めなさい

今現在は、奴隷労働搾取システムではありますが、、

どうせ「働く」なら、
自分のやりたいことをやった方がいいじゃないですか。
そこにやりがいを感じたいじゃないですか。
自分が生きたいように生きた方がいいじゃないですか。

1度きりの人生なんだから。何妥協してんですか。

後悔しないようにやりたいことをやって生きた方が絶対いいですよ。
自分の生きる道は、自分で決められるんですよ。

どんな道を選ぶのも、あなた。
あなたが決めて、今の現実がある。

諦めるのも、あなた。
明らめるのも、あなた。
決めるのは、あなた。
動くのも、あなた。

あなたはどう在りたいですか?

今の人生、今の働き方、今の人間関係、
あなたが望んでいる理想の形ですか?

満足してますか?
まだまだ改善できますか?
それとも、不満を抱えていますか?

あなたは、どう在りたいの?
あなたは、どう生きたいの?
あなたは、どう働きたいの?

自分の意思、自分の価値観、大事にしましょう。
明確にすればするほど、ブレなくなります。
自信を持って生きれるようになります。

今の現状がどんな状態であれ、あなたはあなたしかいないし、あなたがいることで救われている人が必ずいます。

「人を動かす」から、「人のために動く」へ

「はたらく」とは、「人を動かす」と解釈すれば、支配者側の言葉です。解釈を変えれば「人のために、動く」ともとれます。

主体的に解釈は変えられるんです。事実はすぐに変えられませんが、自分の思考次第で、解釈は変えられます。「働き方」は変えられます。

また「傍(はた)を楽(らく)にする」という解釈もあります。あなたの傍(そば)にいる人を、楽にしてあげるために、あなたができることをする。それが本来の「はたらく」です。

個人的には、今はまた、6年前、4年前、2年前とは全く違う「在り方」「生き方」「働き方」をしています。この過去記事の内容も古いんですが、その段階があって、今の段階にたどり着いたと言えます。

この記事をお読みの皆さんも、
自分の今の「在り方」「生き方」「働き方」を内省し、
未来の「在り方」「生き方」「働き方」を考えてみてください。

こうありたいから、こうやる。
生きたいように、生きる。
働きたいかたちで、働く。

自分の人生を生きる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

それでは、またやーさい!

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