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ただただ、思ったことを書く。

先日の東京・千葉出張の際に、思ったことを書きます。

ただ、思ったことをそのまま書く。以前もやってますね。

先日思ったこと

朝8時に家出ました。タクシーで空港まで。
移動中に、Facebookのグループ内でのコメントを返しつつ。

空港は混雑していたため、
チェックインに時間が多少かかったものの、
搭乗前に本屋で本を2冊調達。

で、9時55分発で、12時30着。機内で1冊読み終わり、仮眠も取る。

しかし、朝食取らなくなってから、機内であまり眠くならなくなりました。

で、13時10分にリムジンバスに乗り、千葉駅まで。
14時40分着。車内でもう1冊読み終わる。

そのまま、15時からセッション開始。

で、仕事が終わって、18時くらいにホテルにチェックインして、note書いて、勉強会の資料作り。それと、新規ビジネスプラン練り。という充実した1日でした。

それで思ったこと。

「無」=「三昧」

家をでてから仕事開始まで、約7時間。ただひたすら座り、本を読んでたら着いている。距離感を気にしなければ、何も気にならない。図書館で一日本を読んで過ごしているのとやってることは変わらない。

ここが沖縄なのか、千葉なのか、愛知なのか、大した問題ではない。ただ私が「ここ」にいる。「場所」という概念を無くすと、今この瞬間という「時間」だけを生きれる。

さらに、「時間」という概念すら無くした時、それは「無中(むちゅう)」と言うのではないか。

何にもとらわれない時。「無の中」に入っている時。ただこの瞬間しかない状態、無になっている状態。それを仏教的には、三昧(ざんまい)と言う。(実際に本を読んでる時は、無中になっているし、読書三昧してると言える)

「無」=「空」=「有」

「無」とは、ゼロのことではなく、「空(くう)」のことである。もちろん「空(くう)」とは、空っぽということではない。「空(そら)」には何もないようで、酸素や窒素、二酸化炭素などのエネルギーが存在する。「空(くう)」とは、「有」である。

色即是空、空即是色。「色」とは、色が有るもの。つまり物質である。空は物質であり、物質は空である。これは科学的に捉えると「量子」のことである。

この世界のすべては、同時に「有と無」が存在している。

この世界の全ては、「無」であり「有」である。この世界のすべては、同時に「有と無」が存在している。それは「表と裏」のように。「陰と陽」のように。それらは、ただ同時に存在しているだけである。そこに良いも悪いもない。それは、余計な解釈である。

この世界のすべては、エネルギー体でできている。

この世界のすべては、エネルギー体でできている。量子でできている。私たちのこの体はエネルギーこの心もエネルギー思考もエネルギー

エネルギーは、物質化するし、物質はエネルギー化する。
思考は現実化するし、言葉も現実化する。

「量子」は、意図した瞬間にそう表現される。

だから、「信じる」ということが大切である。疑ったら、それが現実化する。信じ続ける。信じ切る。不安というエネルギーは現実化してしまう。

この「わたし」には、「有と無」が同時に存在している。

「わたし」という存在も「有」であり「無」である。「わたし」という存在を意識した時だけ「有」であり、意識していない時は「無」である。何かに集中している時、無になっている。眠り、夢の世界に入っている時、無になっている。夢中=無中である。この「わたし」には、「有と無」が同時に存在している。

自意識過剰な時、それは余計な思考である。それを、意識のし過ぎと言う。

「わたし」という存在を、「わたし」という意識を、限りなく「無」に近づけていけた時、生まれたままの、あるがままの「本来の自分」らしく生きれるのではないか。

「無中」でない時、何かが邪魔していると言える。
不純物が入り込んでいるとでも言おうか。余計な思考とでも言おうか。

純粋な状態、それは「無」である。できる限りの純度、無の状態が理想。それは、何からも支配されない「自由」ということである。

「自由」=「無」である。

自由とは、「自らに由(よ)る」と読む。

あるがままの自分=内なる神、ということに気づき、認識し、本来の「我がまま」に。「在るがまま」に。ただ、存在するのみ

「我」とは「神」であり、「真我」である。「真我」=「無我」である。無我「夢中」ではなく、無我「無中」のほうが適切なように思う。「無我=無中」である。

ただ生きる

草木に意識はない。自我というエゴはない。わたしが、あいつが、、明日こうなったら、、もし〇〇だったら、、そんなことは一切何も思わない。ただそこに存在し、環境に適応し、植物たちは共生している。エネルギーを分け合っている。

わたしたちの「いのち」は本来、純粋なものである。人生に意味などない。そんなものは考える必要がない。ただ生きる。すべての出来事は必要だから起きている。どんなに辛く感じることも、必要だから起きている。それは「魂磨き」という人生においての「作業」である。

今を生きる。余計な思考はいらない。余計なものが現実化してしまうから。あるがままに。ありのままに。流れるままに。無になろう。無に生きよう。

…と、思ったことを書き続けたら、こうなりました(笑)

この書いてる時も「無」ですね。普段は、けっこう文章を読み手側が読みやすいように、理解しやすいように書いていますが。自分の思考にだけ意識を向けてると、こうなる。哲学的になる。理解できるかどうかは気にしてない。

さて、どれだけの人が読んでしっくりきたでしょうか?言葉って、知れば知るほど、面白いんです。言葉を知らないと伝わりきらないでしょうが、言葉を知ってると、なるほどなぁと感じるものです。古い本、昔の著書の本には、こういう言葉に込められた意味が奥深いことが多々あり。

最近の本は、厚さも内容もほんと薄っぺらい。言葉を知らないからだろうなぁ。そこに深みがない。表面だけの浅い知識って感じ。

「筋膜リリース」とか言って、ローラーでコロコロしてるレベルかな。どの膜ですか?どの層ですか?繋がりは?全体はみれてますか?みたいな。

とりあえず、今回の結論。

無=有。
無=0。有=1。
0=1。

この意味がなんとなくわかる人に、伝わればそれでいいや。

それを無私とも言う。無我=無私

この日も富士山は、ただそこに在るだけでした。雄大でした。

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