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「悟る」ということについて〜禅と瞑想の違いから〜

最近、密教系の本をまとめて読んだことから、仏教熱が湧いてきたのと、
周りに坐禅や瞑想に興味を持つ人が多いことから、思いついたので、
私が考える「禅と瞑想の違い」「悟り」ということついて書いてみます。

最初に悟った人は、ブッダ。

まず「悟り」について考えてみます。

仏教の始祖、ゴータマ・シッダールタ(ブッダ、仏陀、釈尊、お釈迦様のこと)は、悟りを拓き、輪廻転生から解脱したとされます。仏教のゴールが「悟り」と言われるような部分がありますが、ちょっと大袈裟すぎると思っています。

「悟り」って、そんなやつじゃない。

禅とは

「禅」というのは、仏教が派生していく中で、坐禅をして「悟り」を拓くことを重視した宗派があり、それを「禅宗」と言います。

現在、日本には「臨済宗」と「曹洞宗」の2つがあります。基本的に似ているのですが、それぞれスタンスが少しだけ違います。

特徴だけを簡潔にいうと、
「禅問答」と言われるものは臨済宗の方です。
曹洞宗は「只管打坐」という、とにかく坐るというやつです。

ちなみに、仏教の他の宗派でも坐禅はしなくはないはずです。
元は、瑜伽(ヨーガ)という修行法の1つですからね。
でも、メインではやらない。あくまで坐禅は修行法の1つだから。

禅宗は坐禅をメインにする。密教系の真言宗と天台宗は瞑想の前段階として坐禅をしますが、禅宗ではないので禅とは言いません。密教坐禅とか言いますね。

瞑想と禅は、似て非なるものです。
その辺、一般的に曖昧に使われているところがありますので、
以後、私五木田の認識で説明しましょう。

坐禅は、煩悩と向き合うもの

イメージ的に、坐禅はただ座るものです。ただひたすら煩悩と向き合う。
ちなみに、「心を無にする」とか言いますが、基本的に無理です。
厳密な意味で、「無」というのは存在しないからです。

般若心経の中で、「色即是空 空即是色」という部分があります。
この「色」は「物質」。「空」は「空っぽ」的なニュアンスでとってください。

色は即ち是れ空である。空は即ち是れ色である。
色=空。空=色。物質は空っぽであり、空っぽは物質である。
言い換えれば、「空っぽの中は、空っぽではない」。

つまり、「空」は「無」ではない。「空」は「有」である。

量子の世界を理解すれば、分かります。
物質をミクロに見ていけば、素粒子になる。素粒子の中は、スッカスカ。
1つ1つの細胞は、ミクロの世界ではすべて素粒子になる。
この実体と思われる我々の体も、量子的に見るとスッカスカ。

でも、おかしいな?物質は確実に存在する。
でも、その中身は実はスッカスカ?何これ?

限りなく無なのに「有」。限りなく有なのに「無」。
一見矛盾するが、これが最先端の科学的知見。
その最先端の科学と仏教の世界観は一致する。

煩悩は消せない。だって、人間だもの。

で、坐禅の目的とされる煩悩の話に戻すと、煩悩は消せません。
煩悩を消そうとか思ってる限り、煩悩は消えません。
煩悩を消そうと思うと、「煩悩を消そうと思う煩悩」が生まれちゃうから。

さらに言えば、
「煩悩を消す」ためには、「煩悩」が先にないといけません。
無いものは、消せないんだから。
「煩悩を消す」ために「煩悩が必要」になってしまう。
なんやこれ、終わらんやん(笑)

ということは、
何も考えなければ、煩悩は生まれない。
考える限り、煩悩は生まれる。

ということになる。

煩悩を消すためには、考えを消せばいい?
そのための坐禅?

いや、だから消せないんだって。

人間には、煩悩が必要である。

人間には五感があります。
生きていれば、自然と五感が反応する。

坐禅をしていると、こんなことが頭をよぎってくるでしょう。

暑いなぁ。
あ、鳥の鳴き声が聴こえるな。
あ、この線香の臭い好きだな。
あ、足が痺れてきた。腰も痛くなってきた。
あー、汗が背中をたれてる。。
あー、風が気持ちいい。涼しい。
お腹空いたなー。あと、何分?

坐禅中、あなたの五感、脳があらゆる情報を感知します。
つまり、生きている限り、勝手に思考が生まれる。
それは生存本能だから。

五感が機能していなかったら、人は生きていけませんからね。

思考が生まれる限り、煩悩は消せません。
いや、思考は消してはいけない。つまり、煩悩は消す必要がない。

煩悩は誰にでもある。決して悪いものではない。
煩悩にとらわれることが、悩み苦しむ原因であって、
煩悩自体に良いも悪いもない。

つまり、五感は必要。思考は必要。煩悩は必要だってこと。

坐禅をする時には

なので、坐禅をする時には、
煩悩は勝手に生まれてくるということを理解する。
煩悩が浮かんでも、ただそれを受け流す。

煩悩が浮かんでは消えるを繰り返すだけ。
煩悩は相手にしない。余計な思考を入れない。
ただ、受け入れる。

そして、ただ一点に集中していくと、限りなく無に近づいていく。
「無の境地」と言われるやつになる。でも、無ではない。

無ではなく限りなく1つになる。1つに集中する。
1つならそれに集中できる。だから、振り回されなくなる。
それが「無」という状態と考えられます。

でも、その「無」は「0」ではなくて「1」なんです。
だから「有」。

無=有。0=1。

この境地にたどり着くと、色々見えてくる。宇宙の始まりはビッグバン。
ただ1つの一点だった。それが今も拡張し続けている。

つまり、0=1=∞という矛盾する公式が導き出せる。
これが真理と思われます。

私は、今ここにたどり着きました(笑)

心は「無」にはできません。心は「有」だから。
そして、心の可能性も無限大ということです。

自分の心、思考をコントロールできるか。
それを養うのに坐禅の習慣を身に着けることは、とても良いでしょう。

ちなみに、「坐る」という字ですが、
「土」の上に、「人」と「人」がいます。

これは、土の上に坐り、
「自分」と「内なる自分」が向き合い、対話をすることを表します。

とにかく、自分と向き合うこと。
自分の心と向き合うこと。それが坐禅です。

瞑想とは

続いて、瞑想について。

禅と瞑想の違いは、禅はただ坐るだけですが、瞑想はエネルギー的なもの、内なる自分、大いなる何か(サムシンググレート、ハイアーセルフ)と繋がるものと思っています。

マインドフルネス的なやつは、禅ではなく、瞑想です。
Meditationというと、瞑想のことですね。
禅は、Zenです。

私が1番学んでいる真言密教では、阿字観瞑想というのをやりますが、それは、すべての始まりの音とされる「阿」と一体化する瞑想と言われています。

それを自分だけでなく、月や太陽、宇宙と一体化していく。これは言葉にしきれませんが、「阿」は宇宙を表し、大日如来を表します。

阿=宇宙=大日如来=自分という形になるのですが、
真言密教が説く「即身成仏」という世界観がそこにはあります。

私は、仏であり、宇宙である。
この圧倒的な世界観が分かると、
光に明るく照らされるような感覚があります。

南無大師遍照金剛。

見方を変えれば、世界が変わる。

私は、仏であり、宇宙である。

分かる人にはわかるし、分からない人にはわからない。
でも、分かるようなった時、世界の見え方が変わります。
私は変わりました。

あなたが見ている世界は、
あなたが自分のフィルターを通して見てるだけ
です。

そのフィルターを変えれば、見える世界は変わります。
違う色のサングラスをかければ、世界の色が変わって見えます。

あなたのメガネは、どんな色をしていますか?
他の人のメガネは、あなたと一緒でしょうか?

現実を変えるには、自分が変わることです。
いや、物事の見方、捉え方を変えることです。

瞑想をする時には

量子論の話に少し戻り、素粒子をさらに細かくみていくと、
「超ひも理論」と言われてますが、
物質の最小単位は「ひものようなエネルギー体」だと言われています。

つまり、物質はエネルギー体。体はエネルギーでできている。

瞑想は、エネルギーと繋がる感じと最初に書きましたが、
この辺を理解するとより深く「繋がれる」感じがします。

「悟り」とは

で、「悟り」について。

「禅問答」というのがありますが、これは師匠から弟子に問いかけをして、悟りを目指すというもの。その問いは答えがないような矛盾するようなもので、頭で考えると難しい。

ちなみに、一休さんとは、一休禅師と言われる禅宗の僧侶です。
一休さんのとんちは、禅問答からきています。
禅問答の中で、この世の真理を発見する。その瞬間が「悟り」。

「悟り」とは、
「さとり」「さとる」「さをとる」「差を取る」ということで、
「知ってることと知らないことの差がなくなること」
が第一歩だと考えられます。

人は、わからないことに不安を覚えるものですが、
わからないことがなくなった時に不安はなくなります。

お金や食べ物が底をつきそうになれば不安を感じるものですが、
明日給料が振り込まれるとわかれば、振り込まれたのを確認すれば、
不安がなくなるでしょう。

つまり、何かと何かに「差」を感じる状態が、
差が取れていない状態、悟れていない状態。

何かと何かの「差」が取れた状態が、「悟れた状態」と言えます。

悟り=差が気にならなくなる状態

だがしかし、人は「差」を感じながら生きるものなんです。
五感があるから、暑い寒いと感じる。
それがあるから人は生きられる。

繰り返しますが、五感は生存本能ですからね。

でも、18度を寒いと思うか暑いと思うかは、
その人の主観、その人のセンサーの違いです。
そこに暑いも寒いもない。18度は18度である。

と、事実と主観を分けて考えられる状態。
これは、暑い寒いの差がなくなっているので、
悟りの状態とも言えます。

また、「男女の差」を感じる。男女という性別がある。
だから、恋愛があるし、子供も生まれる。

でも、それだけが男女の差でもない。
男同士だって、女同士だって恋愛がある。
年齢の差もない。人種の差もない。ジェンダーの人もいる。

同じ人間であり、そこに「差」はない。
そうなれば、差がなくなる。
差別がなくなる。

これも悟りの状態と言えるでしょう。

そして、人には心がある。心には喜怒哀楽がある。
怒が強すぎたり、哀が強すぎたり、
そこに「差」が生まれれば生まれるほど、人は悩み苦しむものです。

誰かと競う。誰かとの差を感じる。
「自分は自分なんだ」「比較なんていらないんだ」

そう思えたなら、これも悟りの状態と言えるでしょう。

人間に上も下もない。人間は人間ですからね。価値の差なんてない。
どんな自分も受け入れる。どんな相手も受け入れる。
どんな状況も受け入れる。

「差」はあって当たり前なんだけど、
「差」を気にしなくなる。気にならなくなる。
差なんてないと思える状態を悟りと言う。

坐禅で1つになれた時、1つしかないんだから、差がなくなる。
それが「悟り」。

と認識しております。

悟りはあるのか。ないのか。悟れるのか。

長くなりましたが、この言ってることが分かるなら、
あなたも悟っています(笑)

個人的には、だいぶ「差」を感じなくなってきたので、
悟ってきたと思っています(笑)

でも、だからと言ってゴールにはならないし、人生は続いている。
「どうだ俺凄いだろう、悟ったんだぜ!」とか言ってると、
人との差を自ら作り出しているので、悟ってはいない(笑)

とか言いつつも、こう言うことを書く時点で、
人と人との差を作り出しているとも言える(意図してもしなくても)ので、
結局悟ってないのかもしれません。

何も言わなくなれば悟りなのか。
でも、自分が知っていることは伝えていかないといけないではないか。
これもエゴなのか?利己なのか?利他なのか?

…とか考えていると、答えって絶対ないんですよね。
そもそもこの考えていることが煩悩だし。
煩悩がなければ人は考えない。行動しない。

だから、煩悩は必要。消す必要はない。
煩悩は受け入れつつ、行動していく。

何かを切り取って考えれば、そこに面が生まれるので裏表が生まれる。
少なくとも2通りの見方が生まれる。
いや、表と裏と間があるので、3通りか。

これは個人的な1人問答をそのまま書いていますが。
人生に答えなんてない。ゴールもない。
「悟り」というものが本当にあるのかどうなのかもわからない。

ただ、生きていくのみ。

でも、どうせ生きるなら、世のため人のためになることをしたい。
それに尽きるかなと。

すべての差がなくなった時、すべての差を気にしなくなった時、
争いは消え、世界は平和で幸せになるのかななんて、思いました。

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