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【UPDATE】嵐の予感。楽しかった幼少期(自己紹介2)

皆様こんばんは!
埼玉県越谷市で、がやてっく株式会社という小さな会社を経営している小栗義樹と申します!
いつも僕の記事を読んで下さりありがとうございます!

金曜日は僕の出世コンテンツ(笑)
「ちょうどいいハンデだ」のUPDATE記事を投稿します。
本編は当時書いたものを少しだけRemakeし、冒頭と文末に新たな記事を追加するという方式です。

本記事は投げ銭システムを導入しています。加筆した記事はすべて読むことが可能です。
文末の文章は、今までの自己紹介よりもシビアな文章を書いています。
※全部読んで、応援したい・支援したいと思って頂けたなら、この記事を買ってもらえると嬉しいです。今回の記事の価格は400円です。

文末の記事には、過去に書いた自己紹介を読み直し、思ったことや違った視点・別の切り口などを追加します。

さて、今回は幼少期の話です。

楽しかった幼少期・・・
それが、あんなことになるなんて・・・・

前回の自己紹介1とは違い、この記事はちょうどいいハンデだという物語の序章となっています。

諸君、覚悟は出来たかい?(笑)
僕は準備を整えた(笑)
さぁ、全力で読むがいい!!!(笑)

それでは、始めます。
この記事は、2022年12月30日に投稿した自己紹介「ちょうどいいハンデだ」の2本目、幼少期編のお話しです!


今回は幼少期ですね(笑)

前回、僕の人生はかなりハードモードだと書きました。思い返すとしんどいことが沢山ありますねぇ。普通の子供が、なかなか体験しないような特別な出来事が沢山あったわけです。

そんな僕の幼少期はというと、結構おぼっちゃまでした(笑)

しっかりと可愛がってもらいました(笑)

親戚一同からすると初めての孫だったという事もあり、信じられないくらい溺愛されていたのを覚えています。

特に父方の親戚の僕の可愛がり方はかなり異常でした。祖父は、バブルの時代に大化けしたクリーニング屋の2代目社長。言ってしまえばばお金持ちです。

そんなお金持ちの祖父から見ても、僕は当然のように初孫なわけです。

もうお分かりですよね?(笑)

ほしいと言えば何でも買ってもらえます。当時、持っていないおもちゃなんてありませんでした。トーマスのプラレール・金属製のおもちゃ、ウルトラマンのソフト人形・京本政樹コレクション。僕が欲しいと言えば、大体両手におもちゃが握って、その状態で家に帰ります。これが日常だったのです。

毎週日曜日になると祖父が僕を迎えに来て、最寄りのジャスコやトイザらスに連れて行ってくれました(笑)

朝から夕方まで祖父と遊んでいた記憶があります。

父は簡単に言えば御曹司です。言い方を変えればドラ息子。特になにも言いません。でも母は、なんでも買ってもらって帰ってくる僕に対してよく怒っていました。我慢しなさいと。

僕は祖父が大好きでした(笑)

だって、なんでも買ってくれて、ずっと僕を甘やかしてくれるんですもん(笑)

ある意味、最強のスポンサーでした(笑)

これが3歳とか4歳の頃の記憶です。

ぼんやりとしか覚えていませんが、僕の中で非常に楽しかった光景として記憶されています。

ちなみに今は、父にも祖父にも祖母にもあっていません。父にはもう20年以上会ってないです。祖父と祖母とは、20歳の時に学費の取り立てにいったのが最後です(笑)

※元気にしてますか?(笑)

5歳くらいの頃、当時、僕が見ていた世界がバグである事を理解するようになります。

完全におぼっちゃまとして育てられていた僕は、僕が世界の中心で、祖父は正義・何かと怒ってくる母は悪で、僕の邪魔をする存在。みたいな感覚を持っていたのかもしれません。

毎週日曜日に祖父と出かけると、そこはもうエンペラータイムなわけですから、それ以外の時は気の小さい泣き虫な子供だったんです。気に入らないこととか、やりたくないことがあるといつもべそをかいていました。幼稚園も年中から入園していた気がします。

この頃くらいからだったと思うのですが、父と母がちょこちょこケンカするようになりました。当時の僕は、これがお酒によるものだとは理解していません。そして、このケンカがのちに、あれだけ冷え切った、緊迫した家庭を生み出すことも当然理解していません(笑)

そんな事よりも不思議な事があって、父と母がケンカをすると祖父が日曜日に遊びに来ないんです。当時の僕は子供ながら、この事実に衝撃を受けました。

父と母が派手な言い争いをするとその週祖父が遊びに来ない。

当時は僕の中で、両親よりも祖父の方が偉いと思い込んでいました。

僕が一番上で、そのサポートをするのが祖父。みたいな感覚があったのでしょう。

父と母は、僕に無理やりやりたくないことをやらせようとする、欲しいモノも我慢しなさいと言ってくる大人。なんなら敵くらいに思っていたのかもしれません(笑)

だから余計に衝撃を受けたんです(笑)

父と母の仲が悪くなると祖父が遊びに来ない。これは、父と母の動きによって、祖父の動きが決まるという事です。祖父のが偉い、僕が一番偉い、そんなふうに考えていた世界はここで終わりを迎えます。

僕はここから両親に、特に父に気を遣う生活が2年近く始まります。

祖父が遊びに来てくれることを願うのもあったのですが、この頃から、父が声を荒げる機会が増えていきます。今までたまにだったものが月1になり、週1になっていく。僕は、まだ幼くて気を遣う事を知らない2つ下の妹が父の逆鱗に触れるの阻止するため、ひたすら仲を取り繕おうと頑張るようになります。単純に、声を荒げた父の姿を見たくなかったんです。

怖かった。肩身が狭かった。そんな記憶を持っています。

この辺りから、僕のハードモード人生がスタートしていきます(笑)

僕は、いつも父の顔色を窺っていました。特に意識していたのが話し方です。5歳から6歳の頃は「父が、ちゃんとした口調で話しているかどうか?」で機嫌を判断していたと思います。

今思えば、ちゃんと言葉が聞き取れる時は素面の状態で、ろれつが回っていなかったり、饒舌なときはお酒が入っていたのでしょうね。

当時の僕は、そんなこと分かりませんから、ちゃんと話しているかどうか?をまず確認しましていました。ちゃんと話しているのなら、多少の事は問題なしです。素面の時の父は本当に優しかった。だからこそ、どうして豹変するのか分からないのが怖いのです。

さぁ、これがちゃんと話していない時が問題(笑)

もうずっと緊張ですわ(笑)

これ、母が一緒にいればいいんですけど、ごくまれに母がいなくて、僕と妹と父だけの時があるんですよ。この時はもう背筋ぴきーんですよね(笑)

とにかく妹が余計なことを言わないか?この人が着火して怒鳴らないか?こればっかり考えていました。常に最悪のケースを想定して、そうなったらどこから逃げればいいか?妹を連れて逃げることができるか?ということも踏まえて、避難コースも考えていました(笑)

5歳までおぼっちゃまとして育てられた世の中舐めまくりの僕が、妹を連れて避難するルートを考えられるようになったのだから、それはもう成長ですよね(笑)

そしてとうとうある事件が発生します(笑)

ボクシング事件です。

僕はひょんなことから大人は力が強いことを学びます。

とうとう父に全力でぶん殴られる時が来るわけですね(笑)

はぁ~、しんどい(笑)

思い出したら悲しくなってきましたわ(笑)

続きはまた明日書きますね(笑)


はい。ここまで読んで下さりありがとうございます。
これが僕の幼少期の環境・周囲人間関係のお話になります。

ここから先はUPDATEです。

読み返してみて思いました。
結構ちゃんと書けてますね(笑)

本編でRemakeした部分はかなり少ない方だと思います。
直したのは、てにをはくらいでしょうか。
やっぱり2,500~3,000文字くらいの文量だと、まとめるのが比較的簡単な気がします。

長文になると、結びや着地が分からなくなってきて、結果的にいらない言葉が増えていく傾向がありますよね。あれ、僕だけかな?(笑)

今回、本編のRemakeで意識したのは、幼少期の僕の愚かさを強調する事です。当時は、本当におぼっちゃまでした。周囲の事なんて何も分かっていませんでした。そんな僕の周りは、僕だけを取り残して激動だったのです。

僕と僕の周囲とのギャップが、後々僕を苦しめることになる。この落差を表せるように、少しだけ加筆してみました。

タイトルも変わっています。この時はただ予感しかありませんでした。

本当に暇でやることが無ければ、暇つぶしに、過去に書いた自己紹介2本目の記事と比較してみてください(笑)

本編でも書いたように、僕は祖父が大好きでした。

今でも、祖父と遊んだ思い出を覚えています。

本編ではおもちゃを買ってもらったことについて触れていますが、晩御飯にも連れて行ってもらいました。万世というお店によく行き、ハンバーグを食べたのを覚えています。

当時の僕は好き嫌いが激しくて、ハンバーグのお皿に盛られているニンジンやらジャガイモが食べられませんでした。
祖父はいつも「じゃあこれは、じいちゃんが食べてあげよう」と言って、僕のお皿に盛られているつけ合わせを代わりに食べてくれました。

ほっこりするエピソードのように聞こえますが、この生活が10年、20年と続いていたら、僕の人格は確実に変わっていたでしょう。今の人生に満足にできているのは、関わってくれた人のおかげが大きいと思っていますが、この生活が続いていたら、そんな人たちとも関われなかったかもしれませんね。

間違いなく、違う人格に育っていたでしょうから、この記事を書くことも無かったかもしれません。

祖父と会えなくなった当時は寂しいという気持ちを持っていたのですが、今考えればこれでよかったのだと思います。

そんな僕は一度だけ、社会人になったばかりの頃に祖父と再開したことがあります。
本当に偶然でした。

祖父が経営しているクリーニング屋さんも、僕が大人になるつれて小さくなっていきました。そして、僕が社会人になる頃にはそんなクリーニング屋さんをとうとう売りに出したのです。

長年やってきたお店を閉めるタイミング。そんなそこそこ長い歴史に幕を下ろす瞬間に、僕はたまたま祖父と会いました。

3年ぶりか4年ぶりか、とにかく久しぶりに再会した祖父は大分弱っているように見えました。痩せてしまい、片目が見えなくなってきていると言っていました。年もせいもあるのでしょうが、僕から見ればそれだけには見えなかったです。

養育費をもらいに行った時は、まだまだ元気だったように見えました。たった数年でここまで印象が変わるのかと、驚いた記憶があります。

そんな驚きの連続の中で、特に衝撃だったのが「じいちゃん、全部失っちまった」という言葉でした。

この記事を読んでくれた方からすると、僕のこの衝撃、なんとなくご理解いただけるかなと思います。

なんでも持っていたじいちゃん。なんでも与えてくれたじいしゃん。

僕にとっては最初の理解者でもあり、一番のスポンサーだったじいちゃんが、すべてを失ったと、ある種の降参宣言をしたわけです。

23歳になった当時の僕はまだ、無意識の中でじいちゃんは何でも持っている凄い存在だと思っていたのでしょう。だから、この白旗には面食らったのです。

もう、あれだけの無茶を通す力は、このじいちゃんには残っていないんだ。そう思いました。だからといって、じいちゃんを嫌いになったりはしませんけど、僕の中でこう、城が崩壊したような感じがあって、とてもやるせなかったのです。

あの発言が、僕の中の「じいちゃん無双伝」に終わりを告げたのかもしれません。

そして、人は適度に考え・行動しないと、いつまでも同じような幻想・理想郷にはいられないと悟りました。

父も母も、そして祖父さえも。

幸福という意味での栄光を掴んでいたのは、長い人生の中でのほんのひと時だったのでしょう。一時の局面で掴んだ幸せは、継続的な努力で持続させないと、長くはもたないのです。

だからこそ僕は、1つの小さな成功を延々と積み重ねる努力をしようと決めました。

大事なのは、次の幸せをみつけること。自分にとって、本当に価値のあるものは何かを、見失わず・延々と見つめ続けることで、自分の人生の何色にも染められるのです。

これが出来て初めて、人生は豊かになるのだと思います。

祖父はきっと、自分の人生における幸福を見失ってしまった。僕も父も失い、仕事やお金など、目の前にあるものに自分の幸福を委ねてしまった。じいちゃん、全部失っちまったという言葉が出てしまったのには、そういう背景があるように思えてならないのです。

僕はそうはならない。もちろん、お金や仕事はメリハリをつけるうえで必要なものですが、僕が人生をかけて手に入れたいものはそこには無いでしょう。胃がキリキリするような刺激は、仕事やお金、自己啓発の中には落ちていませんからね。

さぁ、来週は父との話をしましょうかね(笑)
ボクシングの話です。これね、凄く泣けるんですよね(笑)
思い出すと哀しくなります(笑)

早い段階で、とんでもない理想の時間を体験し、その後とんでもない早さで現実に連れ戻された僕。理想-現実÷時間=絶望です(笑)

UPDATEでは、当時の家庭環境を生々しく、そしてリアルに思い出してみようと思います。

さぁ、今日も何となく悲しい感じになったところで、記事を終わりにしたいと思います。

ここまで読んで下さり、ありがとうございました(笑)

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