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加藤のファミリーヒストリー27
編集後記 2019年記
2018年突然に「加藤の墓じまいをする」という話が持ち上がりました。
お墓という不動産について私は漠然とした管理形態しかイメージしていなくて、将来誰もその管理費を払わなくなれば、無縁仏になって、そのうち将来死んだ誰かの為に明け渡すのだろうくらいにしか思っていませんでした。実際、それを管理していたのは母君枝で、それを自分が受け継ぐ実感などありません。
でもこの「墓じまい
加藤のファミリーヒストリー26 次の世代へ
2018年記
◯◯ちゃん結婚するのよ
◯◯ちゃんのところ赤ちゃん産まれたって
そんな報告を母から聞くだけで、時間はどんどん過ぎて行きました。
誰しも30代から40代の働き盛りは目の前のことで精一杯で親戚付き合いは後回しになるのではないでしょうか?
知らない間に新しい命はすくすくと成長し、自分は日々を生きるだけで、歳を重ねていることすら気づかないでいました。
それでもよく連絡をとる従姉妹はいて、
加藤のファミリーヒストリー25 小さいお姉ちゃん
「あんた、カメラ持って来てよ、イタリア料理おごるから」
母のお達しで今日は祖父母のお墓参り。母が子供のとき住み込みで働いていたお手伝いさんが、祖父母の墓参りをしたいとやってくると言うのです。
今を去ること65年前、貧しい農家に育った彼女の村では機織り(ハタオリ)が女の仕事。
村中の娘は機織り修行をしなければならなかったのですが、それがどうしてもやりたくなかった彼女は先に知り合いのつてで奉公にきてい
加藤のファミリーヒストリー24 尚文
祖母の死から2年後、長男尚文が愛妻幸枝の後を追うように亡くなります。
脳腫瘍が発見され、だんだんに家族のこともわからなくなっていきました。
のちに、特攻隊にいた時、上官からひどく殴られて一時期意識不明になったことがわかります。
当時彼の班にいた兵士が、本来ならば地元の人と交流してはいけないのに、交流したことがわかり、班長だった尚文も責任を問われて罰を受けたという経緯だったようですが、それほどとなる
加藤のファミリーヒストリー23 みつの死
尚文の長女真紀が結婚し、清から数えると4世代目が生まれます。そして登美子の長女陽子も結婚 。加藤ファミリーはその枝を広げながら賑やかに家族が増えていきました
みつにとってはひ孫。その顔を見られて良かったと思います。
祖母みつはとにかく器用でしたし、料理も上手でした。
戦時中は風呂敷から足袋を縫ったりしていたそうです。
料理は町田に来てからもずいぶんやってくれました。
一度、私がクリームコロッケを
加藤のファミリーヒストリー22 同居
祖父清が亡くなって、平井の家は処分することになり、祖母みつは’我が家へ来ることになりました。
その時の日記です
1978年8月31日
私の家なら昼間は誰もいないし、留守番になる
娘の家だから、お嫁さんみたいに気を使わなくていい。
私とパパは前々からおばあちゃんがうちにくることを主張している。
それが一番自然じゃないか?本音を言えば、私は家族が多い方が好きだし、
きっとそうなると思うけど
1
加藤のファミリーヒストリー21 清の死
1978年8月7日 清は85歳の生涯を終えました。
江戸川区平井の小さな家でその生涯を終えられたことは幸せだったと思います。
祖母も高齢。一人で看病するのも大変だったのだと思います。一つ、一つ、できていたことができなくなって、だんだんに衰えて亡くなりました。
まだ高校生だった私は、老いることにまったく無知だったし、人は皆こんな風に消えて行くのか?としか思わなかったけれど、現代の高齢者や支える家族の
加藤のファミリーヒストリー20 町田へ
1975年私が中学1年の夏 いよいよ身体が不自由になった清はみつとともに町田の我が家へやってきました。近所には尚文家もあるし、母君枝がいるから、今後のみつにかかる負担を減らせるだろうと、兄弟が話し合って決めたことだったと思います。
でも清本人は少し認知症もあったのか、平井の家から連れ出すだけで、柱にしがみついて抵抗したと聞いています。
たとえどんなに不自由になっても、「我が家」ほど安心な場所はない
加藤のファミリーヒストリー18 清76歳の誕生日に
母君枝の談によれば、彼女が大学生の頃、清はある日脳溢血で倒れ、以来言葉が不自由でした。
私に語りかけてくる清の口調は、舌がはっきり使えず、ゆっくりゆっくりでした。
経済的にも、肉体的にも不自由なことはあったと思いますが、子供達がそれぞれに活躍し、家を持ち、溌剌とした生活をしていても、清は何を望むでもなく質素な平井の家に住み続けていました。
ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、もう使われなくなっ
加藤のファミリーヒストリー17 それぞれの道で
昭和40年代 加藤の兄弟はそれぞれの道で活躍していました。
尚文は評論家として、テレビの討論会?(トーク番組?)に度々出演しては、勢いのある語り口調で注目を集めており、各分野に交友関係も広がっていました。
登美子は薬局を切り盛りするかたわら、地域活動に積極的で、土浦の自然を守る会会長として霞ヶ浦の水質汚染浄化活動にも力を入れ、さらには「くずかごの唄」というエッセイも執筆。日々勢力的に飛び回ってい
加藤のファミリーヒストリー16 町田の夏休み
私が町田へ引っ越したことで、従兄弟の真史とは同級生になり、毎日お互いの家を行ったり来たりしながらよく遊んでいました。そして夏休みになると土浦から登美子一家が訪れ、尚文、登美子、君枝の家族は子供達の年齢が近いこともあって町田に集合しました。
まだ自然あふれる野原ばかりの小さな地域だったので、近所の人も一緒に近くの広場で父の指導によるフォークダンス会もありました。
教師だった父は本番前に庭でステップ
加藤のファミリーヒストリー15 ピンクの家
私は生まれた時は千葉県船橋市にある高根公団という団地に住んでいました。
高度成長期、公団住宅は憧れの住まい。母から抽選に当たって嬉しかった話をよく聞きました。そこから、幼稚園に上がる前、祖母の弟の転勤に伴い、留守になる家に住んで欲しいと松戸市の常盤平の一軒家に引っ越します。そして小学校1年になった時、その祖父の弟がまた松戸に戻ってくることになります。
行くあてのない父と母は登美子に相談して町田の尚
加藤のファミリーヒストリー14 孫たちの作品集
加藤の兄弟新聞には、清の孫たちもたくさんの詩や作文を載せています。
当時、私はなかなか書くことに目覚めておらず、自分の小学校の頃の作文などかなりひどいもんで、不採用だったようですが、従姉妹たちはそれぞれ本当にのびのびとした感性で言葉を紡いでいたこと。
ここにいくつかご紹介します。
ちょっと一言 有紀6歳(登美子の次女)
「ママ ママは気をつけてちょうだい。
マキちゃんのパパのこと、時々アニキ