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一遍上人をたずねて。

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一遍上人の踊り念仏について、調べたことや思ったこと、考えたことなんかを気ままに綴っています。
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一遍上人をたずねて⑭

一遍上人をたずねて⑭

 京都市東山区に六波羅蜜寺とい真言宗智山派の寺院がある。951年に京都で疫病が流行し、空也上人が車に十一面観音像を乗せて京都市中を回って祈祷を行ったのち、現在の地にお堂を建て「西光寺」と称したことが始まりである。

 空也上人の死後、跡を継いだ弟子の中信が「六波羅蜜寺」と改名して現在に至る。十一面観音像は本尊とし、国宝に指定されている。その他にも空也上人立像や伝平清盛坐像などの重要文化財に指定され

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一遍上人をたずねて⑬

一遍上人をたずねて⑬

 大分県別府市といえば温泉で有名であるが、別府八湯(べっぷはっとう)と呼ばれる温泉郷の中に鉄輪温泉と呼ばれる温泉がある。こちらの温泉は、いわゆる蒸し風呂で、地元の伝説では「一遍上人が鉄輪の地獄を鎮め、温泉療養の場として鉄輪を開いた」とされている。

 この話はあくまで地元の言い伝えであり、根拠となる史料がない。唯一の手がかりとなるのは、一遍聖絵に一遍上人が太宰府にて師である聖達と再開した際、二人で

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一遍上人をたずねて⑫

一遍上人をたずねて⑫

 一遍上人は32歳から51歳まで遊行と呼ばれる行脚の旅に出ていたわけだが、そこで気になるのが費用についてである。これについては全くもってどうしていたかはわからない。しかし、時代は中世鎌倉期、僧と言うだけで各地で施しを受けていたのかも知れない。ただ、資金があったという可能性も捨て難い。

 徒然草の中に、しろうるりという、仁和寺真乗院の盛親僧都がある法師につけた渾名の話がある。この法師は、師匠が亡く

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一遍上人をたずねて⑪

一遍上人をたずねて⑪

 一遍上人とは、どんな人物だったのか?こういったことをいくら考えても、本人の性格を読み取れるような史料は残されていない。

 歌も残っているが、それからは真面目な人柄以外の人物像がなかなか浮かび上がってこない。もっと言ってしまえば、歌のような史料というのは、だいたい真面目な感じになっているし、自分を良く見せようとするツールなので、人物像に迫ることはできない。

 私は、一遍聖絵に残されている踊り念

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一遍上人をたずねて⑩

一遍上人をたずねて⑩

 丹後を遊行していた一遍上人はある干ばつに苦しむ村に到着した。見かねた一遍上人が念仏を唱えたところ、海から大きな龍が現れ、雨を降らして村を救ったという話が「一遍聖絵」に描かれている。

 鎌倉期に新仏教の宗祖となる僧が6人出たが、そのような伝説が残されているのは一遍上人だけである。これは一体何を意味するのだろうか。龍にどのような意味があるのだろう。

日本におけるワニ

 私は龍について調べてみた

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一遍上人をたずねて⑨

一遍上人をたずねて⑨

 一遍上人の旅には多くの癩病(らいびょう)患者が伴っていた。こちらも「一遍聖絵」に多く描かれている。癩病とは、ハンセン病のことであるが、どうもハンセン病だけを指していたわけでもなく、広く感染を指していたようである。

 一遍上人の教えとは何か?というのがおぼろげに見えてきた気がした。日本の浄土仏教は、法然が比叡山延暦寺の教えに反発して下山してはじまったもので、武士層に広まった。その弟子である親鸞に

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一遍上人をたずねて⑧

一遍上人をたずねて⑧

 遊女は、時代によって扱われ方が全く違う。元々は白拍子など、天皇や貴族に仕えた専属の踊り子であり、夜の夜伽もした。鎌倉期には随分と落ちぶれ、遊郭などで体を売るものや乞食(こつじき)のようなものになって全国を旅をしながら歌や踊りといった芸を売って暮らすものもいた。

 ひょっとして、一遍上人は遊女と合流してともに旅をし、彼女たちを躍らせて、自分は賦算を行なっていたのではないか?という妄想に取り憑かれ

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一遍上人をたずねて⑦

一遍上人をたずねて⑦

 一遍上人が再び出家し、家も家族も捨てて遊行に出るのは32歳である。まず向かったのは信濃の善光寺。

 善光寺は歴史が古く、奈良の東大寺よりも古い。御本尊の一光三尊阿弥陀如来は日本最古の仏像と言われていている。一遍上人が生きた鎌倉時代にはすでに善光寺信仰は広まっており、源頼朝や北条一族が厚く信仰し、多くの人が参拝に訪れる寺院でもあった。

 この善光寺が行っていたのがお札配りである。一遍上人は、遊

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一遍上人をたずねて⑥

一遍上人をたずねて⑥

 一遍上人は各地で踊り念仏を広めていく。というのが定説になっているが、一体どのように広めたのか。という疑問を解消するため、まずは一遍上人の移動距離について整理することにした。

 伊予(愛媛)で生まれた一遍上人は、九州太宰府で修行しており、一番北は岩手県となっている。これを文明の力を用いて距離をまとめることにした。グーグルマップである。

 長島尚道、砂川博、岡本貞雄、長澤昌幸、高野修各氏による共

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一遍上人をたずねて⑤

一遍上人をたずねて⑤

 一遍上人によって流行したとされる踊り念仏は、のちの盆踊りや伝統芸能に影響を与えた。

 と、するのが一般的な紹介である。しかしながら、どうも私には違和感しかない。この違和感は一体なんなのだろう?

「一遍上人の踊り念仏」というならば、その踊り方の手順や音楽について、取り扱い説明書的なものがあってもよさそうだが、どうもそういったものは一切ない。私は元々西洋音楽を学んだ人間で西洋音楽にとって楽譜は

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一遍上人をたずねて④

一遍上人をたずねて④

 一遍上人よりも前、朝鮮半島で踊り念仏を広めた人物がいた。

 元暁(ウォンヒョ)、日本では、「がんぎょう」もしくは「げんきょう」とも呼ばれている。7世紀の統一新羅時代に朝鮮仏教界で活躍した僧で、日本では「無量寿経宗要」の著者として知られている。

 元暁は、華厳宗の僧侶でありったが晩年は破戒僧となり、俗服を着て小姓居士となのり、芝居道具であった大瓢で遊び道具を作って、これを持って念仏を唱えながら

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一遍上人をたずねて③

一遍上人をたずねて③

 平安末期から鎌倉時代にかけて仏教にかげりが見え始める。いわゆる末法思想というものである。それはそのはずで、比叡山延暦寺では貴族や朝廷の相続権を持たない子どもたちで溢れ、権力社会が横行し、ヒエラルキーができる。真言宗金剛峯寺でも、空海が作り上げた思想をツールとしてただ振りかざすだけで停滞し、衰退が始まる。

 そんな中から新しく出てくるのが鎌倉真仏教と呼ばれるもので、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、

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一遍上人をたずねて②

一遍上人をたずねて②

 一遍上人の踊り念仏とは、一体どんなものであったのだろう?私の興味は、その一点に絞られた。

 色々調べていると、湘南工科大学の長澤可也という教授が面白い報告書を出しておられた。一遍聖絵を元に踊りの順番を3DのCGで復元するというもので、聖絵は踊りの手順が記されたものではないかということであった。非常に興味深い。

 しかし、私にはどことなく言葉にできない違和感があった。一遍聖絵は、一遍上人が亡く

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一遍上人をたずねて①

一遍上人をたずねて①

 ひょんなことから一遍上人について調べることになり、ここ一年ほど彼について調べている。

 鎌倉期の僧で、踊り念仏を広め、のちの盆踊りや日本の伝統芸能に影響を与えた時宗の開祖。というのが一般的な一遍上人の説明だろう。

 彼の生涯を表した「一遍聖絵」などをみると、数十人の僧が櫓の上で踊る形で踊り念仏は表されている。これ見て私は今で言うところのクラブなのではないか?と思い、不思議な興味とともに一遍上

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