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一遍上人をたずねて③

 平安末期から鎌倉時代にかけて仏教にかげりが見え始める。いわゆる末法思想というものである。それはそのはずで、比叡山延暦寺では貴族や朝廷の相続権を持たない子どもたちで溢れ、権力社会が横行し、ヒエラルキーができる。真言宗金剛峯寺でも、空海が作り上げた思想をツールとしてただ振りかざすだけで停滞し、衰退が始まる。

 そんな中から新しく出てくるのが鎌倉真仏教と呼ばれるもので、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、そして、一遍上人の時宗である。一遍上人は、この中で唯一比叡山での修行経験を持たない。

 一遍上人は、13歳の時に父・河野通広に連れられて九州太宰府で浄土宗の教えを広めていた僧・聖達の元に預けられる。河野通広は、出家し如仏という名で浄土仏教西山派の祖・証空の元でを学んでいた時期があり、聖達とは兄弟弟子であった。これについては、武士社会に嫌気が指していた河野通広が、権力社会によってヒエラルキーが出来上がった比叡山に息子をいれたくなかったという見解もある。もし、そうであれば、それは正解であったのかもしれない。

 聖達の元に行ってすぐ、聖達の紹介により佐賀の華台という僧の元に預けられ、まずそこで1年ほど浄土宗の教学を学んだと言われている。詳しいことはわからないが、聖達が忙しく、基礎を教える暇がなかったのかもしれない。一遍上人のその時の名は随縁といった。

 こうして一遍上人は、25歳まで太宰府で修行することになる。当時の太宰府は、軍事・外交のためにおかれた重要機関で、貿易も盛んであった。ここで、多感な時期を過ごした一遍上人は、仏教だけではなく、様々な海外の人々や文化、情報などに触れたのではないだろうか。

 私が一遍上人を調べ始めた頃、SNSで一つの絵が目に入った。李氏朝鮮後期の画家・金弘道の舞童という作品である。

舞童 作・金弘道

 これを見て、私はハッとした。踊り念仏と似ているではないか。調べると朝鮮半島の伝統芸能・プンムルという踊りを描いた作品であった。

一遍聖絵

 今考えると、雰囲気だけが似ているのだが、当時の私としては「これは大変な発見なのではないか」と興奮した。太宰府で修行をした一遍上人は、踊り念仏のようなものを朝鮮半島からの情報で得ていた、もしくは着想を得たのではないか。ということである。

 残念ながら、結果としてはプンムルの絵が時代的に随分のあとのものであり、プンムルが一遍上人に影響を与えた可能性は低い。ただ、私はこれをきっかけに朝鮮仏教についても少し調べ、元暁という新羅時代の破戒僧に辿り着くことになる。

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