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岡山芸術交流2022の思い出
10月の風が心地よかった。旧校舎の古い匂いと秋の空気が印象的だった。階段を上がると遠くから聞こえるいくつかのメロディーが重なり合っていて映像作品があるのだろうと思う。廊下に響くピアノと女の人の歌。ぎこちない日本語でドイツ人学生が歌っていた。部分的に単語が聞き取れるが、本人にとっては意味をなさない音の塊だと思われる。それでもメロディーや仕草からは親密な感じがする。近さと、他性。島袋道浩による《わけの
もっとみるあいち2022の思い出
「まだ、生きている」という河原温の電報から始まる展示構成に、全体の鑑賞体験が方向づけられた。
《still alive》は作家:河原温が知人たち宛てに「私はまだ生きている」と送り続けた電報。
作家は2014年に亡くなっているため、時差を伴って私たちに届けられたそれは、否応なく作家の不在を際立たせる。遅れた至急報。「もう生きていない」人の「まだ生きている」から私たちは「今生きている」ことを再認識す
布の庭にあそぶ 庄司達/(名古屋市美術館2022.4.29〜6.26)について
展示室に入ってすぐ、背負っていたリュックが異様に重く感じられた事を思い出している。展覧会図録と文庫本それぞれ一冊分の、意識すればやや重い、といった類の重さ。それが急に重くなったこと。
展示室にはまず、《白い布による空間 マケット》シリーズのマケット6種が配置されていた。一辺50cmくらいだったか、直方体のフレームの中に、白い布が多数の支点で吊り下げられていて、その支点の配置によってさまざまなたわ
ミロ展 日本を夢みて/(愛知県美術館2022.4.29-7/3)感想
ジョアン・ミロの絵が可愛いのはなぜか。謎の生き物たちのユーモラスな造形だけではない、なにか、形象が重なる部分の処理が効果的であるように思える。例えば《絵画(カタツムリ、女、花、星)》の以下の部分など。
右側に立つ人物(?)の輪郭線を上から下に、赤、黒、茶色となぞっていくと微妙に不連続になっている。後から着色したため?形象が重なる部分の輪郭線がたどたどしく揺らいでいる。ミロ作品のありとあらゆると
新潟、2022.6.19のこと
4年ぶりのキナーレは「MonET」になっていた。頭上の空は毎秒変わっていくけれど、エルリッヒの空は4年前と同じ空だった。書くことがそれだけで記憶を保存できる訳ではないにせよ、書かないと消えていく一方なので、とりあえずまた書き始めることにした。
目〔mé〕《movements》は新常設された作品で、全体を見ると大量の羽虫の群れのよう、部分を見るとその一つ一つが文字盤のない秒針でカチカチと蠢いている
BRIAN ENO AMBIENT KYOTO/京都中央信用金庫 旧厚生センター/2022.6.3-8.21 感想
「家具のような音楽」と言ったのはエリック・サティだったっけ。
そこからラディカルに聴くべき対象を消去したジョン・ケージの《4'33"》が、音を聴くという構造自体を主題にする事でひとまずは「現代アート」と呼ばれるなら、
アンビエントには、たとえ極薄であれ明確に聴くべき音の対象がある。ブライアン・イーノは「音楽」の人だと思うし、それは展覧会を見た後も変わらない。
家具のような〜と言うなら、「肘掛け椅子
森村泰昌 ワタシの迷宮劇場/京都市京セラ美術館/2022.3.12-6.5 感想
展示はポラロイド写真で構成されている、いつもの森村作品より、はるかに小さい、それが800枚以上続く、指定の順路はない、入り口は五つある、出口があったかは分からない、中心のない空間で、ポラが増殖している。
あまりにも数が多く、あまりにも小さい。
「オリジナルの持つスタイル」と「それに扮する森村」の差異について、じっくり思考を促すこと。それがいつもの森村泰昌のポートレート作品の体験だと、とりあえず仮
ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術/感想
冒頭のカール・アンドレからして、ミニマルというにはずいぶん詩的だった。詩的だから良いのだと思う。彫刻に文字通り足を踏み入れるのを躊躇う観客に、「ほら、おいでよ」と言わんばかりのコンラート・フィッシャーの写真。素敵だった。ミニマル/コンセプチュアルの可動域をゆるく捉えながら、豊かな問題群と戯れる試み。
1.ミニマリズム、函数、高速道路「萌え」
巧妙に排除されたかに思えて、かえって強く意識されるの
アンディ・ウォーホルの解釈を巡って【読書メモ】
沢山遼さん(以下敬称略)の著作『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020年)の読書会に向けてのメモになります。同書の6章「ウォーホルと時間」において、ハル・フォスター『第一ポップ世代』(中野勉訳、河出書房新社、2014年)との解釈の違いを巡る論点を中心に、まとめておこうと思います。
争点としては、ウォーホルの作品に
・トラウマを反復する人間主体を見出すか(フォスター論)
・時間の持続の中で、非人間的な
ユージーン・スタジオ 新しい海 EUGENE STUDIO After the rainbow (東京都現代美術館2021.11.20-2022.2.23)感想
〈ホワイトペインティング〉シリーズについて。
白のモノクロームは信仰の対象、イコンとして機能するのは自明の事として、そこに口付けるというのは一見、冒涜的である。が、記録写真からはそのような印象は受けない。参加した人々は至極等身大な愛情の対象を白のモノクロームの中に投影しているように見える。そこに崇高さはない。マレーヴィチからロスコに至るまで、モダニズム絵画の崇高さを作り替える一つのやり方なのだろう