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森村泰昌 ワタシの迷宮劇場/京都市京セラ美術館/2022.3.12-6.5 感想

展示はポラロイド写真で構成されている、いつもの森村作品より、はるかに小さい、それが800枚以上続く、指定の順路はない、入り口は五つある、出口があったかは分からない、中心のない空間で、ポラが増殖している。
あまりにも数が多く、あまりにも小さい。

「オリジナルの持つスタイル」と「それに扮する森村」の差異について、じっくり思考を促すこと。それがいつもの森村泰昌のポートレート作品の体験だと、とりあえず仮設定してみる。それを基準とした場合、今回の展示において増殖するポラは、熟考する間もなく次から次へと連続していくようだった。それは確かにオリジナルに扮しているのに、そのオリジナルの存在感が、いつもより希薄になっている。

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《影の顔の声》の怪談めいた語りも、「ありがちな展開」なるものに扮している、と言えるだろうか。人物だけでなく、物語にも扮装すること。

けれど、ここでもおそらく「特定の」オリジナルがあるわけではない。
やはり何かに扮しているようでいて、その何かの影が薄い、という感覚。

ところでこの語りは去勢的なオチで締め括られていた。さまざまなものに-なる作家のことを思えば、象徴的去勢ではなく、性転換手術だと解釈すべきだろうか。n-1、中心なしになる。

そうやって脱中心化し増殖していくポラロイド。それをデータベースとして語りたくなる。インスタントに、膨大な量の写真データが蓄積されていくクラウド。加工アプリで変身する。

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けれどまた観客は展示空間で、化粧する森村泰昌本人と出会うのだった(《夢と記憶が出会う場所》)。ポラロイドが焼き付けたのは、化粧をした作家の身体の現前だった。
〈それは-かつて-あった〉ことをポラは証明する。

その奇妙な位相について。

一見オリジナルは無く、中心もない、それはどこまでも増殖していくように思えて、

しかし作家自身の身体と、それが扮するオリジナルが、いつもより希薄でありながら、やはり確かにあるのだった。

オリジナルのあるコピーでも、
オリジナルのないコピーでもなく、
オリジナルの希薄なコピー、
とでもいうようなもの。

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一見そこに無いように思えて、やはりそこにあったこと。「首のない無数の仏像、その股の間には、顔があった」と《影の顔の声》は語っていた。関西弁のイントネーションで。
《衣装の隠れ家》の、あの首のないマネキンたちも同様だろうか?迷宮入りする。関西弁で。

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