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感覚の領域 今、経験するということ/国立国際美術館2022.2.8-5.25 感想

国立国際美術館の企画展とコレクション展、とても良かった。以下、書き留めとして。

感覚の領域 
今、経験するということ/
国立国際美術館2022.2.8-5.25

今村源《きせい・キノコ2022》
地中で人体は腐食・分解されて、キノコになる。外側の根っ子だけが残る。国立国際美術は地下だったと、改めて気付く。今村さんの作品が昔から大好きで、リゾームという時、いつもイメージは今村作品だったりする。片隅でひっそりと、分子状の の綻び、もしくは生成、例えばそれは冷蔵庫の中で…

中原浩大《Text Book》
こうやって作品に触る時、ビニール手袋をする過程もお馴染みのものになってしまった。
ページをめくりながら、色そのものを見るという経験、例えば金沢のアニッシュ・カプーアを見る時の知覚体験をどことなく思い出す。けれど決定的に違うのは、微妙に1ページ前の残像が残っていること。色そのものを知覚する事が、本当にできるのかどうか。
150ページほどあるようで、途中で疲れてやめてしまった。あれは最後まで丸だったのだろうか。敷衍して、経験と習慣からいつまでも続くと思っていたことが、いつか急にひっくり返る可能性について考える。

名和晃平《Dot Array-Black》シリーズ
実験室ような白い空間に、原子のような配列があって、部屋を時計回りに見ていくなら、それはだんだん拡大される。反時計回りであれば、逆に縮小され視野自体は早くなる。顕微鏡のピントを調整するような感覚(ピントは常に合っているが)。
《Line Array-Black》シリーズ
一点に集中した無数の線が、ネットワーク状に広がっていく。ネットワーク状になっても、クラスターがある事が重要だと思う。中心のある世界から、脱中心化された世界へ(すると時計回りで見るのが正だったのだろうか?)

飯川雄大《デコレータークラブ》
初めて体験した。とても楽しかった。身体全部で経験する。RPGのような懐かしさがある。デコレータークラブ、という蟹についてのドキュメントを横目に見ていると、空間が現れたり消えたりする様子が潮の満ち引きのように感じられた。

コレクション2 つなぐいのち
collection2:Our Life
/2022.2.8-5.22

塩田千春《私の死はまだ見たことがない》
デュシャンの墓碑の対偶?(そして死ぬのはいつも他人)。コレクション展で時々見かけるけれど、今回は死についての作品と合わせての展示(順路を逆走して最初に見てしまった)。


クリスチャン・ボルタンスキー《モニュメント》
ボルタンスキーが死んでしまった。いつも他人の死を題材にしていた作家は、作品の中に逝ってしまったのか。lifetime展が懐かしい、ちょど2年前のこの時期に見た。

村岡三郎《酸素-片手を頸動脈に》
酸素ボンベは生命の有限性。
頸動脈のリズムに合わせて引かれたという線を、実際の自分の軽動脈に触れながら見てみる。そうやって思ったのは、あくまで描線には、作家の手の恣意的な動きが介在せざるを得ない、ということ。

館勝生《December30.2008》
抽象表現主義と余白、非-オールオーヴァーとはなんだろう。

木下晋《光の眺望》他
ハンセン病についての描写とのこと。語る言葉にいつも迷ってしまう。

村瀬恭子《Punch》他
いつも好き。世界は流れていく。

米田知子《空地Ⅰ-市内最大の仮設住宅跡地から震災復興住宅をのぞむ》他
電車ですぐそばの神戸の街、日常的な風景に、かつて震災の被害があり、死体が安置されていたという。日常の不安定釣り合い意識を向けさせる。そういった作品群に惹かれる。

シュテファン・バルケンホール《裸体像(女)》
木像の味わい深い雰囲気も良いのだが、台座としての木材が面白い。まだ、この木材の中に人体が眠っていて、掘り出されるのを待っているみたい。隣にあった福岡道雄《腐ったきんたま》については、台座がある点は似ていても、その中に何が潜在している感じは受けなかった。腐った金玉って、可能態の否定というか、潜在的な可能性を否定するようだ。
(以前、福岡道雄《飛ぶ2》とモーリス・ルイスと並んで見る機会が合った時は、福岡道雄の水面〜台座の空間は、断面図を取ると、ルイスのステイニングの絵になるような気がした。)

福岡道雄《ピンクバルーン》
同じく福岡さんのピンクバルーンは、何かミツアリみたいでぞわぞわしてしまう。展示室も暗くて、そんな想像をした。

島袋道浩《箱に生まれて》
箱の中の人、ほんとに中にいるみたい。暗い展示室が、箱の中のように感じてくる。キキスミスと福岡道雄と同じ空間に、妙にフィットしていた。

マーク・マンダース《乾いた土の頭部》
頭部は、近くで見ると物質感が満載なのだが、展示室の特性上、十数メートル距離をとってみることもできる。離れると、物質の印象がない。本当に人が、顔が存在しているように見えた。

物質か、存在か、

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