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アンディ・ウォーホルの解釈を巡って【読書メモ】

沢山遼さん(以下敬称略)の著作『絵画の力学』(書肆侃侃房、2020年)の読書会に向けてのメモになります。同書の6章「ウォーホルと時間」において、ハル・フォスター『第一ポップ世代』(中野勉訳、河出書房新社、2014年)との解釈の違いを巡る論点を中心に、まとめておこうと思います。

争点としては、ウォーホルの作品に
・トラウマを反復する人間主体を見出すか(フォスター論)
・時間の持続の中で、非人間的な方への物理的な崩壊を見出すか(沢山論)
というあたりになると思います。

1:沢山遼『絵画の力学』メモ

沢山論のポイントは、【時間性】【物質性】に集約されそうです。

・時間性
例えば《銀の雲》や映画作品《エンパイア》《スリープ》はふつうの意味で絵画とは言いにくいですが、これを時間性を含んだ広義の絵画と見做します。機械的なメディアによって“描く”、パフォーマティブな「絵画」。※1

・物質性
シルクスクリーンは刷るたびに少しづつ、ゴム劣化、目詰まり、インクの硬化と言った物理的な損耗に晒されます。
先の時間性の観点と共に、「時間が進行するにつれて物質的に損耗していく」点を積極的に見出そうとされています。※2

先行研究においては、非物質的、ないし「死」という概念と絡めた形而上学的な時間性の指摘しかなかったため、新たな観点を提示していることになります。

《光学的な自動車事故》などで指摘されるのが、
人間のイメージを刷りの反復の損耗によって、非人間へとゲシュタルト崩壊させること。
一貫して、人間的イメージを装飾的で不安定な染みへと変状させようとすること。
時間】の進行に沿って【物質的】に【非人間】の方へ解体/変容する傾向が、ウォーホル作品に発見されていきます。

2:ハル・フォスター『第一ポップ世代』メモ

こうした観点から疑問視されるのが、ハル・フォスターの解釈になります。

ハル・フォスターも、同様に物理的な損耗についてに指摘しています。《ダンス・ダイヤグラム》の踏まれて破ける可能性など。※3
沢山論はそこにダンスの指示を追っていく時の【時間性】を見出すのに対し、
フォスター論では【傷】が重要なキーワードになってきます。※4

ハル・フォフォスターはこの傷=ショックな光景を【トラウマ】的に反復する主体を見出していきます。
ポイントは、ショックそのものは見えない(表象不可能)という点で、《モンロー》も《ジャッキー》も《電気椅子》も《交通事故》も、それ自体見えないトラウマ的な死(ラカンの概念で言えば現実界)を【遮断】するための反復・上塗ですが、その行為によって(それ自体は見えない)死≒現実界の領域を【指し示す】。そのために、見えないはずの死≒現実界が突出してくる不穏さを感じさせる。

フォスターはここで精神分析を下敷きにしていました。そこで例えば、幼児が通過するとされる「ものの殺害」が想起されます。

自他が未分化な状態、物質的に母体との境界が曖昧な状態から、母が切り離される時、それに耐えるために「不在」という「記号」を習得する。
物質→記号への移行(ものの殺害)。
ここで、そもそも母=自己(自他未分化)であったために、自己の一部もまた、不可避的に「不在」という記号として処理されてしまう=を負うことではじめて主体は成立する。
こうして根源的に失われてしまったものを、主体は求め続け、記号の連鎖によってかろうじて指し示すが、そのものには決して到達できない…と言う話でした。

このあたりが、「それ自体は見えない死≒現実界(≒もの)を、図像の反復(≒記号の連鎖)によってかろうじて指し示す」というフォスター論のウォーホル解釈の下敷きかと思います。

対して沢山論は、あくまで元々あった物質を重視して、主体の成立を根本的に解体する方向で議論を進めようとしているのではないでしょうか。※5


3.以下雑感です

●争点●
ウォーホルの作品に、
・トラウマを反復する人間主体を見出すか(フォスター論)
・時間の持続の中で、非人間的な方への物理的な崩壊を見出すか(沢山論
)

今手元ではウォーホル作品の複製図版しか見られないので、物質的に損耗していくというよりは、シミュラークルとして反復し続けていくような印象を受けます。完成作品はハル・フォスターが言うように「機能」してしまうのではないか。
一方で実際の作品を物質的損耗という観点で見たことはなかったので、実作品をそうした視点で見てみたら面白そうです。

反復が数多く繰り返される作品では、シルクスクリーンによる刷りの損耗が激しく、かつ一つ一つのイメージがゲシュタルト崩壊ないし模様へと解体していく感覚はよくわかります。その意味で沢山論が妥当でしょうか。
一方で反復が2枚〜数枚程度の作品ではゲシュタルトはまだはっきり認識できると思いますし、それゆえの不穏さから、フォスター論が妥当のように感じます。

フォスター論の言う主体というのも、安定的というよりはかなり危ういものに思えますし※6、その点では沢山論とも遠くない。
また、沢山論でもフォスター論の言い換えのような主張もあるように思えました(「表象から指示対象を徹底して奪い去る…なんらかの実体ではなく、実体の不在こそが持続・反復する」p.169)。

主体とはそもそも不安定な釣り合いに過ぎず、なので、それをどのくらいの程度で解体していくのか、程度の問題として両者の争点を解釈できるのかな、と思いました。
9月のウォーホル展を楽しみにしています。



(註)

※1
ただ、ウォーホルはこれら作品を非物質ゆえに良しとしているとのことで(沢山p.138.p.140など)、本稿の整理の仕方では後半の物質性の話とねじれてしまいます。あくまで沢山論は「時間」を一貫したキーワードにしており、「物質」はシルクスクリーン作品を考察する際にとりわけ前景化するポイントのようです。

※2
≒エントロピーとのこと。低級唯物論と共にクラウス&ボワがモダニズム批判で使っていた事も想起されました。垂直に立ち上がる主体を、水平面へ下落させる効果。

※3
踏まれて破ける可能性と、実際に破ける=損耗はまた別のものです。実際の物理的損耗では無い、という点が重要な気がします。

※4
沢山論の当該箇所註釈23ではトラウマ万能主義を批判されていますが、註釈の通りフォスターがトラウマ的読みをするのは後期作品のスクリーンテストについてであり、初期作品についてはどれほど強くトラウマの側面を見出していたかは微妙でしょうか?むしろ損耗の物理的側面や脱昇華に言及してすらいます(フォスター、p.167)。ただ、フォスター論が全体を通して損耗=傷をキーワードにしていることは確かだと思います。

※5
その意味で、フォスターvs沢山を、ラカン男性側の式vs女性側の式、ファルスvsサントーム、モダニズム的主体の垂直性vsアンフォルム的主体の解体(エントロピー/低級唯物論的)へと敷衍できそうでしょうか?

※6
主体の「溶解」ではないとしつつも、「絶え間なく構築されては脱構築される過程」と書いています(フォスター、p.197)



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