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子どもの頃の私も、今の私も、存在するだけで愛おしく、愛されている

保育園で働き始めて気づいたことがある。

私は保育園の看護師として働きながら、早朝や昼食時は0歳、1歳クラスをサポートしている。

おもちゃを誰かに向かってなげる、押し倒す、追突する、盗む、ご飯のお皿を投げる、口から吐き出す、機嫌の悪さ全開、大号泣大絶叫、そんな風に、本能のままに生きている。これがありのままの自分を生きるってことか、と子どもたちを見て感じる。

お皿投げて、食べ物をばら撒き、床も子どもも私も食べ物まみれになったときとかは、「えーっ!」って思うけれど、だからといって、「はい、あなたは存在価値ありません、生きる意味ありません」とは思わないし、その行為にはイラっとするけれど、その子ども自体にはなにも思わない。

どの子も個性的すぎるほどのユニークで、同じ個性の子どもはいない。あの子はすごいけど、この子はすごくない、みたいな子どもの優劣もなく、平等。やんちゃな子も、やらかす子も、手がかかる子も、どんな子もかわいくて愛おしく、存在価値がある。みんな、自己表現して、我慢なんて皆無で、ありのままの自然体で生きている。

大人になるにつれて、自分と周りを比べ、優劣を感じ、自分はダメだと感じるようになっていく。周りに合わせて、自分の個性がわからなくなっていく。「いい子」じゃないと愛されない、と思い込んで、自分を演じる。人に気を遣いすぎるほど、気を遣う。自己犠牲をしてまで与える。迷惑をかけないようにして生きている。

子どもたちを見て気づいたのは、そんな自分を選択してきたのは、自分自身だった。無意識に選択していたけれど、私がそう選んだ。

0歳の子どもたちと私の存在価値は同じ。何歳になっても、どの人の存在価値も、0歳の頃と変わらない。

0歳と同じように、存在しているだけで愛おしくて、愛される存在。

今生きているということは、周りの人たちがご飯を食べさせてくれて、着替えさせてくれて、寝かしつけてくれたということ、つまり、愛されて生きてきたということ。

「愛されたい!」と強く枯渇していた過去の自分が癒されていく感じがした。

子どもたちを寝かしつけて見る寝顔は、どの子の寝顔も、愛おしいもの。私にもこんなときがあった。抱きしめられて、頭を撫でてもらいながら、眠りに入っていく時間があった。

私も愛されて生きてきたんだ、存在しているだけで愛おしいんだ、何をしても何もしなくても愛されるんだ、と子どもたちを通して感じている。

自分の子どものころの写真を見てみよう◎どんな感情がわきますか?
「かわいい、愛おしい」など、感じる言葉を今の自分にかけてあげよう◎
子どものあなたも今のあなたも存在価値は同じ。


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