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#34 言葉についての愛を語る

わたしたち、言葉は通じても話が通じない世界に生きてるんです、みんな。

『夏物語』川上未映子 p.190

いいのよ。どうせ人間なんてどこかおかしいんだから。

映画『言の葉の庭』の冒頭台詞より

 最近、自分の周りが色々と、目まぐるしい。瑣末な日常の出来事に追われて、ほんの少しアップアップしている。何を優先にするべきか。いくらでも言葉を吐き出したいのに、その整理がつかなくなると少しショート気味になる。自分を変えたいと思うとき、変えることができるのは結局自分自身。吾輩は、ヒトである。たぶん。

*

尊さの影

 常々思っていることだが、人が会話を交わすという行為はこの世で最も尊い発明のような気がしてくる。一方で、それは諸刃の剣でもある。言葉があることによってわたしたちは生かされもするし、追い込まれもする。

 こうして記事の中で言葉を連ねながらも、この世の中には様々なバックボーンを持った人たちがいて、自分とは異なる生き方をしてきた人たち(それはわたし以外の人間を指すわけだけども)に対して、傷つけてしまわないかなと不安になる。何気ない一言が、その人にとっては胸の内を刺すようなものではないかどうか。

 言葉は受け取り手によって本当に多種多様で、自分はそんなつもりでいったつもりではなくとも本来の主旨とは歪んだ捉えられ方をしてしまうこともある。最近だと、ニュースで国会議員などが不用意な言葉を発して辞職に追い込まれることが日常茶飯事。SNSが普及したことにより、一般の人の間でもそうした言葉狩りのようなものが最近顕著になってきたのは気のせいではないはずだ。もっと、優しい世界であればいいのに。

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光と言葉の粒

 ふとした拍子に、昔観た映画のことを思い出す。しとしと降る、雨の粒。最初眺めていた時には、それが現実なのかリアルなのか判別できなかった。

雷神の 少し響みて さし曇り 雨もふらぬか 君を留めむ
(雷の音が少し反響して空が曇り、雨が降らないだろうか。貴方をこの場所に留め置く理由になるから)

『万葉集』巻十一 柿本人麻呂歌集 作者不明

 新海誠監督の『君の名は』は、公開されるや否や口コミでじわじわとその評判が広がり、興行収入を見る限り異例のヒットとなった。おそらくこの記事を読んでいらっしゃる方々も、記憶に新しいのではないだろうか。

 実はわたしの友人であるスケさんが、もともと新海誠監督の大ファンであるがゆえに、わたし自身も『君の名は』によってこの世に監督の名前が知られる前からよく彼の制作した映画を観ていた。中でも記憶に残っているのが、『言の葉の庭』である。

 『天気の子』の時にも思ったけれど、新海誠監督の真骨頂は水の美しさにある。流れるひとつひとつの粒がキラリと光っては落ちる。主人公とヒロインは、万葉集の短歌を通じてお互いの距離を縮めていく。もちろんその恋愛模様もさることながら、わたしは昔の人の言葉の美しさにほぅとひとつ小さなため息をついた。

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御霊の言葉

「初めに言葉があった」とわたしは言った。
「それなら、言葉が神を生み出すこともできる」

『さよならの儀式』宮部みゆき p.312

 いつから自分たちは言葉を使うようになったのだろう。会話をするにあたって、わたしたちは言葉を選ぶ。相手にとって、最善と思えるようなことも、時と場合によってずれが生じることもある。

 幼いころから本を通して言葉に触れたことで、わたしは言葉選びにひたすら試行錯誤していた。でも物心つく前にはうまく言葉の表現がうまくいかなくて、気になっていた子にねじ曲がって伝わってしまったりして。その当時のことを思い出すと、ジクジクと胸が痛む。

 何気なく少し前に読んだ島本理生さんの『星のように離れて雨のように散った』を手にして、パラパラとページを捲っていたら赤線が引いてあった。思わずハッとするような言葉を、主人公が述べている。

言葉は少ないほうがいいし、愛は語らないほうが何百倍も尤もらしい。

『星のように離れて雨のように散った』p.27

 一瞬、息が止まりそうになった。今わたしはこうしてせっせせっせと愛について語っているわけだけど、当時はきっと共感したからこそ、この一行に線を引いたに違いない。でも、今となっては本当に正しく理解していたのかというと、正直わからないのだ。

 その時は、自分の言葉の拙さにやきもきしていた時期だったのかもしれない。わたしは言葉をこうして綴ることは好きだが、人と話す時には時々詰まる。顔の見える相手が目の前にいると、自分が今言葉を発していいのかわからなくなる。そんな時、急にベラベラベラベラと関係ない言葉の羅列が先走る。大切だと思う言葉ほど、簡単には出てこなくなる。

*

たぶん、絶賛脳内工事中。

 だから、人に対して愛の言葉を発する時には、とてもとても緊張するのだろう。「愛してる」という言葉をやたらめったら多用する人は信用できない。本当にそう思った時には、きちんとその言葉を発することが、わたし自身が大切にしたい美学のような気がしている。

 わたしたちはお互いに、相手に対して異なる理想像を抱いていて。勝手に期待して、失望をして。それはお互いに言葉を重ねる角度が違うだけなのではないだろうか。言葉を伝える方向性が、少し異なるだけ。

 本当に真剣に言葉を連ねることは、それだけ痛みを伴うことを最近知った。特に人と会うことが少なくなったことが、起因しているかもしれない。

 再び、少し前に見た映画のことを思い出した。最近はなんだか言葉遊びのように、連想するかの如く次々に過去に読んだ本やら映画が連なって、わたしの頭の中をぐるぐると回転している。

言葉は愛と同じだ
それなしに生きられない
なぜ?
言葉は意味を伝えるものなのに人間を裏切るから?
人間も言葉を裏切る
書くようには話せないから

 ジャン=リュック・ゴダールの『男と女の舗道』だった。一見まとまりのないような映画だったが、わたしはあの映画が時々ふっと思い出すほどには好きなのかもしれない。

純粋な愛を知るには成熟が必要だ
だから愛は解決になる 真実であれば

 ああ、そうか愛はこの人生になくてはならないものなのか。その時ストンと腑に落ちた。言葉も、言葉なくしては生きられない。わたしは、言葉によって確かに他者との関わりを図ることができて。言葉があるから、自分の思いを努めて伝えようとする。不器用ながらも、自分の存在価値を認めるために。

 大切な言葉を、然るべきタイミングで、伝えるために。密やかに、つぶらな音のひとつひとつを自分の中で秘めている。いつの日になるかはわからないけれど、叶うその日まで。

 長い時間をかけて、真実へと変わるように。


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