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コラム:型とルールは全く違います

どうもです。学校の先生も教えてくれない「歌人から見た日本語論」の時間です。前回、日本語と英語は交わることなく1000年以上続いてきたって話をしました。

今日はその2回目です!!

型とルールは違う!というお話です。


若い方に「短歌は型があるよー」っていうと、「えええっ」という嫌そうな反応がほぼ100%返ってくると思います。入門書でもたまーに、57577というルールやきまり、って書いてあります。(ついぼくも書いちゃうかも)…。

これは自分へのいましめとして、現代歌人でさえ、日本語を大事にしていない例としてあげさせていただきます。

ちょっとタイムスリップしてみましょう。いまわたしたちは中学生です。学校の生徒手帳に書いてある「校則」は型でしょうか、ルールでしょうか。

いきなりぎりぎり微妙なラインの話です。ぼくらの頃は、制服については非常にきびしい規則があり、強制的に守らなければならないルールになっていました。

「髪は染めちゃだめ」とか、女子にいたっては「スカートの丈何センチ」とか、まあいろいろありました。実際にスカート丈を測る先生までいたようです。たまにほんとに地毛が栗色の生徒がいて、染めてないか確認するために1年生のとき教員室でチェックされていました…。

基本、ルールっていいイメージありませんよね…。

特に校則なんて「なんのためかわからないもの」です。なのに「きちきち」してます。だから「型があるよ」っていうとルールを連想する。これでは不自由だなと感じます。

では、ほんらいの型はどうでしょう。

日本語本来の意味を話すと、型というのはもともと「芸を磨く」のための用語でした。人間の「動き」とか、短歌では「呼吸」みたいなもので、そのための「お手本」というか、師匠が自分の体で示してくれる「生きた見本」です。

日本人は型があって不自由というのだけど、この型というのはかなりルールとはニュアンスが違いまして…。

実は型を守っているだけの人は、まったく「一流」とは言われないんです。
最初は型を身につけるためだけに徹底的に「演じる」=物真似をするんですが、この型がきっちり身についてから「型破り」していきます。つまり自分の呼吸というか、自分の声とか体格にあわせて型を破り、より美しく見えるようにする。そして、最後、師匠の型を離れます。そうすると一流と言われます。これを、「守破離」といいます。

ですので、ぼくは最初、意識して型を守った短歌を作り、いまどうでしょう。型破り出来てるかなあという感じです。独り立ちはかろうじてしましたが、まだまだ一流ではないです。

ただルールというのは「変化」しないものですが、型は自分にあわせて変化させていく感じ。

そう言えば、制服って「着こなし」みんな大事にしてませんでした?

学ランだって学ランの長さとかズボンの形とか気にしていました。女子だってぼくらの頃はルーズソックスが流行ったりしてます。ぼくはおしゃれは苦手ですが、もし日本人がおしゃれだとしたら「みんな同じ服で、そこからどうやって個性を出すか」をまず身につけるから、かもしれません。

ここ大事なことですが、

個性をさらにさらに個性的に見せる、引き立たせるために「型」があるんです!!

リズムの癖とか考え方、見方の癖、日常の文章ではちょっとよくわからなかったものが型をとおしてみると急に見えてきます。「あっ、ここを強くしよう」とか。「もっとこうしたいな」とか。練習して自分なりの「個性」を発揮できるようにするのが、短歌の良いところです。

わかりやすい例で、今度はイメージできる言葉に言い換えます。

実は「型」の類義語は「役」です。そう、役者さんの「役」です。「えっ」
と一瞬思いますが、古来の芸の言葉でさんざん「型」や「役」がでてきます。

もうお亡くなりになりましたが、樹木希林さんは個性派俳優として知られていて、どんな役をやっても樹木希林さんに見えました。だったら、最初から樹木希林さんとして出ればいいのに、なんらかの「役」で他の俳優さんと同じくセリフを覚えて同じシーンにでていました。

考えてみれば、樹木希林さんが個性的に見えるのは、役があるからなんだと思います。ご自身の「役」とご自身が渾然一体として、その舞台や、その役柄でふつう考えられるぼくたちの予測をいい意味で軽く裏切って「樹木希林」がにじみでてきます。だから、近所の奥さんを演じても、警察所長を演じても、「あっ樹木希林さん」となるのだと思います。

いま、多くのひとが個性、個性なんていいます。個性を伸ばす教育って言われてます。でも、型があるっていうと自由が大事、権利が大事、っていいます。

完璧に日本語と英語がごちゃごちゃになっているんです。都合のいいところだけ西洋由来の言葉で解釈するから、どちらも悪い部分しか摂取できません。自分が楽をしたいところだけみんな解釈しようとするから、見る人が見たら、「醜い」「考え方がつぎはぎだ」ってわかるでしょう。結局個性のない痩せた歌人しか、いまの30代手前くらいの歌人にはいないように見えます。

個性というのは、そもそも磨くとかそういうものではないです。実は自分の個性というのは意識して磨くものではなくて、そのひとに「あらかじめ備わっている」ものなのです。だから、磨く前に、「どんな個性があるか」「それがもたらす不幸を想像できるか」など、あらかじめ自分で意識する練習をしないと、磨き方をまちがえて不幸になります。

ルールというのはぼくも嫌いで守りたくないですが、日本の「型」という練習法は自分を個性的に見せるものだった、とかなりあとでわかります。そのときになって「知りたい」と思っても、型を身に着けているひとがもういない、なんてザラです。

こうして日本が職人を生み出す背景がどのジャンルからも減っていくのだと思います。

短歌は最近、すごく日本の色が薄くなりました。見立てが新しくても、日本の色はまったく感じられず、そもそも西洋の論理で作られるようになっています。意匠(素材)が同じでも、昔の歌人といまの歌人ではまったく細工の仕方が違うので、今のほうが薄っぺらく見えます。

なかには権威がだめだって言って、まったく経験のない人をインターネットで選者にしているようです。わたしは初心者に判断させるなんて信じられません。同じ言語で書かれていますが、いつも使っている文章じゃなくて、短歌という詩ですよ。見えるひとが注意してみないと、にせの感動をつかむことが結構多い詩形なのになあ…と。

こういうふうに「短歌がうまくなる方法」を伝統的なスタンスで現代日本語に訳す作業がされてこなかったのだと思います。

ほんとうを知っている世代はどんどんインターネットからは撤退してしまったように見えますし、ぼくもそうでしたが、ぼくのころは「型」というか、前の世代の凄さを知っている歌人が直接僕らを指導してくれました。

近年は「個性大事なんでしょ、好きにやりなさい」という年長世代の嘆きにも似た黙殺が聞こえて来るようです。

もうしょうがない。ということでせめてぼくがやろうとしているのは、型のマニュアル化です。でも、読んでできる、というものではありません。

短歌にはいろいろ考え方がある、いいでしょう。
自分の歌はそういうのとは違う、大変結構です。

しかし、ありもしない個性の褒めあいのなかで「ほんとうの個性」にみんな気づかないまま年をとってゆくとしたら…。一度「型」を試してみては、と思いますけど…。

すいません。愚痴になりました。

ぼくはもう「教える」ことにしました。幸い若い人の気持ちも年長世代の気持ちも聞こえるくらいの年寄り具合(45歳)なので、ぼくがやることは「唯一の道」ではないかもしれませんが、なんらかの指針になります。

いま短歌結社に入りたい人は減っているといいますが、僕らの頃は短歌結社が圧倒的に強くて、輝くような歌がたくさんありました。そしてぼくらが、短歌頑張ろうというときに「お前らなんてなんも期待してないわ」といってくれる歌人はたくさんいたと思います。

いまや声もかけてくれない。寂しくなりましたね。

昔の雑誌から、ぼくらがまだ30代前半のころに「ぼくらが賞を取ろうとするときに載ってたコラム」を引用します。今から考えると、同じようなことを言ってるな、と思います。

「個性というのはどういうものかよくわからないが大事なもののようで、右を向いても個性が大事、左を向いても個性が大事と唱えている。個性を生かすとか個性を伸ばすとか、そういうことを掲げない学校はない。学校だけでなくお父さんもお母さんも家の子供には是非個性を伸ばしてもらいたいものと信じて日々教育に熱心である。 そのとき、個性が大事という発想に、実に個性がないことに気づかない。個性を信奉するところにどんな個性的な人間も育たないことを、わたしは疑わないのである。」
(中略)
「短歌は近代短歌があればいいので、前衛以降の現代短歌はまったくなくてもかまわない。と、一回り下の男がいうのを聞いて、ふーん、と思った。彼は、小説も岩野泡鳴なぞ結構好きだそうである。なぜか、と聞いたら自分がそこにいるように思えてとかなんとかいうことであった。
 いつの時代も新鋭なぞ待たれてはいない。待たれているように語るのは脂ぎった外交辞令である。それでも妙な奴は時々出る。夜道を行くビニール傘の上に、どすん、どすんとギンナンが降ってくるようなものである。」

小池光「新鋭なぞ待たれてはいない」(「短歌ヴァーサス」第11号(終刊号)2007:風媒社)

ぼくはその時血気盛んな30代前半で、「なに?僕ら世代の雑誌の終刊号にこの歌人はなんてこと書いてくれるんだ」と憤懣やる方なく、この歌人なんてやつだ、とおもって慌てて『バルサの翼』が入った選集を買ったのですが、結局、何も言えず、自室に正座して「無礼をお詫び」するだけでした。

ぼくはおしゃべりですし昔の歌人は職人気質の人が多かったので、「何もおしえず」みたいな人は多かったのです。黙っていればよかったのですが、なんだかぼくは、過剰なおせっかいなので、現代の惨状を見て見ぬふりは出来なかったのです。それも「個性的」なやり方なのかもしれません、ね…。

投稿者のみなさん、ぼくのような「格下」の歌人で申し訳ありません。


しかし新人賞の投稿を、新鋭の登場を首をながくして待ってるのは、選考委員や出版社の方たちかもしれませんよ…。

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