記事一覧
チキンライスだって蕎麦だって居酒屋だって、親孝行とは親孝行である
今年も変わらずGWがやってきて、東京で特にやらなければいけないこともない私が、数ヵ月ぶりに地元に帰って父親と2人で飲みに行った帰りにふと思ったことをただ書き連ねるだけのことをするだけだから、大したことは書けるわけもないよ。
2024年も既に4ヵ月が過ぎて、生活環境が変わったり、今までとは違う趣味を始めてみたり、今まで苦手だった食べ物を食べてみたら、あれ、意外と食べれるかも、って思い始めたり、いろ
私は今日、歯医者に行く
私は今日、すこぶる気分が晴れない。
雨が降っているからではない。
もちろん雨も嫌いだが、それを遥かに上回る程の強敵、私の気分をいとも簡単に揺さぶることのできる確固たる存在、そう歯医者である。
私は今日、歯医者に行かなければならない。
もちろん月々の光熱費を支払うことと同じように、半ば強制的に歯医者には通っているのだが、何を隠そう、私は歯医者が嫌いなのだよ。
(同じくらいに耳鼻科も嫌いなのだがね。
私の水滴は石を穿てるほど強固ではなさそうだ~駆け込み三番街~
継続は力なり。
塵も積もれば山となる。
どんな小さなことでも根気よく続けていれば大きな成果が得られる、といった慣用句はいくつもあるが、そんな中で私が最もイメージしやすいものとして、『水滴石を穿つ』という言葉である。
軒先からぽたぽた落ちる雨のしずくのような小さなしずくでも、長い間ずっと同じところに落ち続けると、硬い石に穴をあけてしまうことがある、という昔ながらのたとえが語源となっている、まあ簡単
Be curious, not judgmental.
我々日本人の性格的な特徴として、好奇心、探求心が比較的乏しいということが言えると考える。
セミナーや講義、大学の授業における質疑応答の場で挙手で溢れかえる場面を目にした人はかなり少ないだろう。
講義内容に関する質問は、せいぜい片手で数えられる程度で終わり、中には鼻から質疑が寄せられないと判断し、質疑応答の時間を設けない指導者もいるほどだ。
私も漏れることなく純日本人的な思考の持ち主であり、好奇心が
ねじまき鳥クロニクルから学ぶスペキュラティヴ・デザイン
この後、何かが始まる。
それもきっと普通ではない、何か不吉な予感を含んだある種非現実的な出来事だ。
そう読者に語り掛けるような書き出しで始まる、村上春樹による『ねじまき鳥クロニクル』だが、ストーリーの運び方といい、展開の角度といい、私としてはどこを切り取っても実に素晴らしく、魅力的な作品と言いたい。
主人公の岡田トオルは、妻であったクミコを取り戻すために様々な出来事を乗り越えながら物語を進めてい
グループワークから学ぶ多角的視点と普遍性の遷移
人間とは、往々にして普遍的な生き物である。
原人だとかアウストラロピテクスだとか進化の過程の話ではなく、現代に生きている我々個人に関する話だ。
特に苦手と感じるものに対しての感情はそう簡単に変わることはない。
人間関係や住む場所、交通手段を取っても、人それぞれに苦手な側面があることだろう。
私は、「グループワーク」が心底苦手である。
嫌いと言っても過言ではないほど、今からグループワークを始めると
主人公Aと僕が送る内省的異文化交流
私はよく本を読む。
物としては、村上春樹だとか、薬丸岳だとか、読書を嗜んできた人なら誰しもが一度は手に取ったことがあるようなものがほとんどだ。
友人との待ち合わせ前、日曜日の昼下がり、仕事が終わり帰宅する道中の電車内など、手の届くところに本があれば無意識に読み始めてしまう。
そんな無意識下で行われている「読書」という行為と「私」の関係を端的に書ければと思う。
本を読むことが私に与える最大の影響と
これは見事なダブルトゥーループだ!
私は先週、入社してから今までで一番忙しい一週間を過ごした。
原因の詳細は省くが、保有しているシステムでいろいろと起こったのだ。
「システムでいろいろと起こる」
そういった会社に勤めている人からすると、耳をお鍋の蓋で塞ぎたくなるような言葉だろう。
文字通り色々と起こってしまい、私はまだ空いている電車に乗って出社し、平日の真ん中にも関わらず酒気を身に纏った人と同じ電車に乗って帰宅するような日々を過ご
書いている小説の一部を頭出しする
僕は空を飛んでいた。風の流れに身を任せながら体よりも一回り大きな羽を広げ、最小限の体力を消費しながらこの空を飛んでいた。風は弱かったが、一種のカラスとしては空を飛ぶには十分な風だった。
僕がいる遥か上空には、大きな飛行機が飛んでいた。飛行機の羽は我々のもののように器用に羽ばたいたり風を切ったりすることはできないが、予想外の悪天候を抜きにすれば、我々よりが想像するよりも速く、そして正確に空を飛
人間の形成要因〜誘導灯の回しがいつもより2.8倍速いな〜
誰もが朝目覚めた時に自分とは違う誰かになっていまいか、と思って生きてるわけではない。
この場合私は例外である。
雨の日も、風の日も、もし自分が違う誰かとして生きていたらと、1日を36時間にするように叶わぬ希望を抱いていることに気づくことが多々ある。
しかし本当に自分ではない何者かになることを望んで生きていることが正しいのだろうか。
言うまでもないが、誰かに憧れることは間違っていることではないと
別れ際から学ぶ対人コミュニケーション
別れ際「ああ、もっと気持ちの良い別れ文句があったのではないか」
私は友人と別れた後の電車のホームでそんなことを考える。
一人でいる時にそんなことを考えることは容易だ。
脳内で別れ際のシチュエーションを再生し、好き勝手に編集を加え、私が思い描くセリフをテキストで埋め込み、演者である我々に話させるだけでいい。
ただリアルな場面では私の場合、全くもって異なるものとなる。
大学の入学試験で、英単語の和