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Be curious, not judgmental.

我々日本人の性格的な特徴として、好奇心、探求心が比較的乏しいということが言えると考える。
セミナーや講義、大学の授業における質疑応答の場で挙手で溢れかえる場面を目にした人はかなり少ないだろう。
講義内容に関する質問は、せいぜい片手で数えられる程度で終わり、中には鼻から質疑が寄せられないと判断し、質疑応答の時間を設けない指導者もいるほどだ。
私も漏れることなく純日本人的な思考の持ち主であり、好奇心が旺盛な人間とは到底言えないだろう。

講義の場面を考えてみよう。
会場はオンラインで、自宅でPC上で投影されている資料を見ながら講義を受けているとする。
議題は自分が興味のある内容で、自ら進んで応募し受講している。
さて、一通り講義が終わり、質疑応答の場面へと移る。
教授が。「質問はありますか?」と問う。
私は、気になることはあるものの、声を上げることを躊躇う。
10秒ほど時間が流れた後、私ではない他の受講者が挙手をする。

ここでの私の心境は、下記の通りだ。

・私が疑問に思っていることは誰かも同じように思っていることであり、それは私以外の他の誰かが質問をしてくれるだろう
・私が疑問に思っていることは他の人からすると既知の事実であり、私が疑問に思っていることは相対的に疑問ではないのではないだろう
・他の人が質問した内容とそれに対する回答から得られる情報と比較すると、私が疑問に思っていることはそれらに総括され、それらを聞いて自分自身に落とし込む方がよっぽど有益なものであるだろう

こんな情けないことを書き連ねているととても惨めな気持ちになってくるが、ここでは包み隠さないこととしよう。

1つ目に記載した私の愚考は、ただただ羞恥心に侵され、ちっぽけな小学生から一つも成長できていない私自身の問題だ。
2つ目、3つ目には共通していることがある。
それは、外的要因を考慮することなく、既に自分自身に内在している物差しを使って判断しているということだ。
「私が疑問に思っていることが他の人からすると既知の事実である」なんてことが、どうして私が判断できることなのだろう。
「他の人の質問が私の質問を総括し、総合的により有益になる」なんてことが、どうして私が判断できることなのだろう。

人は知らぬ間に、自分の好奇心を相対的に判断し、その結果によってその好奇心を具現化したものを公開するべきか否かを、使いようもないそのちっぽけな物差しで測り示している。
そもそも、好奇心とは相対的に計測されるようなものではなく、潜在的で自身に依存している感情であるため、直感的にそう感じたのならば、それは立派な好奇心であると私は考える。

ここまで物事に対する好奇心について述べたが、これは「人」に対しても同じことが言えるだろう。
私がとても気に入っている "Ted Lasso"のワンシーンを紹介しよう。

台詞の一部を抜粋する。

Guys have underestimated me my entire life.
And for years, I never understood why.
It used to really bother me.
I saw this quote by Walt Whitman and it was painted on the wall there.
It said, "Be curious, not judgmental."
I like that.
All them fellas that used to belittle me, not a single one of them were curious.
They thought they had everything all figured out.
So they judged everything, and they judged everyone.
And I realized that their underestimating me who I was had nothing to do with it.
Cause if they were curious, they've asked questions.
Questions like,
"Have you played a lot of darts, Ted?"
To which I would've answered,
"Yes,sir. Every Sunday afternoon at a sports bar with my father, from age ten till I was 16, when he passed away."
Barbecue sause.

Ted Lasso

人と話しているとき、見下されている、相手にされてないなどと感じた経験がある人は多くいると思う。
自分の考えを頭から否定したり、そもそも耳にも入っていないなど、そんな人と出会って幻滅したことが私にも何度もある。
そういった人たちは誰一人として人に興味がなく、自分たちが知っているものは全て解決済みだと信じており、彼らなりの物差しを持ち合わせている。
彼らはその物差しが完璧であり、疑おうともしないが故、それらを用いて他人のことを一方的に判断し、興味を抱くこともしないのである。

しかし私は、こういった行動を私たち自身も無意識下で行ってしまっているのではないかと提言したい。
この人とは働いている業界が違う、年齢差があるなどといった理由に託けて関わりを隔てているのではないだろうか。
これらも立派な物差しであり、やはり気づかないうちにそれらを乱用してしまっているのかもしれないと私は考える。

「人生を豊かにする」
実現させるためには色々な手段があり、人生が豊かだと感じるには人それぞれ基準が異なる。
その一つとして、自分の周りで起こっていること、これまで当たり前と思って見逃していたことを一歩下がって眺めてみてほしい。
そこには見落としていた魅力があり、そんなほんの小さな発見が私たちの生活をより明るい方向へ導いてくれると私は信じている。

また宗教チックな結びになってしまった。


"All them fellas that used to belittle me, not a single one of them were curious.
They thought they had everything all figured out.
So they judged everything, and they judged everyone.
And I realized that their underestimating me who I was had nothing to do with it."

In the Ted Lasso story above, this phrase reminds me of how we involve with people around.
Unconsciously, we might decide which person is effective for ourselves with our own scale.
This is judgmental and meaningless.
To make your life much better and brighter,
folks, "Be curious, not judgmental!".


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