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グループワークから学ぶ多角的視点と普遍性の遷移

人間とは、往々にして普遍的な生き物である。
原人だとかアウストラロピテクスだとか進化の過程の話ではなく、現代に生きている我々個人に関する話だ。
特に苦手と感じるものに対しての感情はそう簡単に変わることはない。
人間関係や住む場所、交通手段を取っても、人それぞれに苦手な側面があることだろう。

私は、「グループワーク」が心底苦手である。
嫌いと言っても過言ではないほど、今からグループワークを始めるという時には、胃の中にどっしりとした重りのようなものを入れられたような気分になる。
私が新入社員の頃(他の会社でも似たようなものだと思うが)、新人研修の
一環で数え切れない程のグループワークを経験してきた。
私が入社した頃はコロナの影響もあり、8割方がオンラインでの研修だったため、ほとんどが自宅からの参加だったが、もちろんオンラインの研修であってもグループワークは地に根を張ったように息をして存在していた。

「それではこれからブレイクアウトルームに移動してこの問いに対するそれぞれの意見を交換してみてください。よろしくお願いします。」

文字に起こしただけでも気分が悪くなってくる。
何が、よろしくお願いします、だ。
こっちの気も知らずによくのうのうとそんな口をきけたもんだな。
そもそも何をお願いしているんだ。
頼むからそれぞれの意見を交換してくれ、そうでもしないと私の職務が遂行できないのだ、今にも私の母は病室で、、、
分かった、そこまで言うなら意見を交換してやろう、となるだろうが、当時研修を担当していた人は、気休めにコーヒーでも淹れてこようかな、といった顔をしていたため、私は余計にグループワークが嫌いになった。

私がグループワークを嫌う理由は二つある。
一つ目は、グループワークが開始された直後に発生する、誰がどの立ち回りを演じ、どのように進めるかといった舵を誰が取るかを決める時間が必ず生まれるということだ。
つまり、誰が第一声を上げて、他の人間から安堵と称賛の眼差しを受け取るかを窺う時間のことである。
その時間が私はひどく苦手だ。
一人は頑なにミュートを外さず、一人は資料を確認しているように装いながらカメラとは全く異なる角度に視線をやり、狼煙を上げるのはお前だと言わんばかりの雰囲気を見事に作り出すのだ。
その空気に耐えかねた私は毎度、皆さんはどう思いますか、と可もなく不可もない(今思えばかなり不可な気がするが)始め文句を投げかける。
すると頑なにミュートを外さなかった者はいとも簡単にミュートを外し、他所を見ていた者は炊飯器の完了音に気付いたかのように視線を戻すのだ(以下「待つ者」)。
なんだお前たちは。
私が国旗を揚げないと朝が始まらないのか。
ただ、そんな待つ者ばかりではなく、我が我がと進んで国旗を揚げてくれる者も少なからず存在することは覚えていてほしい(その際は私は朝を待つ者に徹するわけだが)。

二つ目は、グループワーク開始後の沈黙が途切れた後、待つ者たちが人が変わったかのようにこぞって口を開き始めるということだ。
各々自分たちの考えが優れていることを無理矢理押し出して自身がどれだけ優れているかを分からせるように、次々と言葉を発すのだ。
なんだお前たちは。
朝が始まらないと走り回れないのか。
誰が朝を始めてもいいのにも関わらず、誰かが国旗を揚げてくれるのをじっと待ち、いざ朝が始まると糸が切れたかのように動き出す。
そんな光景を目の当たりにした私は、特に前のめりな姿勢になる必要性を感じなくなり、地球の裏側で行われているディスカッションを聞いているかのような気分になってしまう。
グループワークは、結局のところ、多く意見を出し、それをまとめ上げる人間が有益とされることから、その場での私の成果と言えば高々と揚げた国旗の周りで走り回っている者たちをのんびりと眺めたことだけだった。

今私は社外で実施されている研修プログラムに参加しており、そこでDXについて学んでいる。
もとより学んでみたい分野の一つであり、この先少なからずなくてはならないスキルの一つとなるため、気を高らかに臨んでみたが、そこで開催されている講座のほとんどは、その「グループワーク」で構成されているものだったのだ。
初回にそれを知った時の私は、想像していたような晴れ晴れとした学びの場に赴く気持ちから、どんよりとした雲がかかった空のような気持ちへと変わってしまった。

しかしだ。
かねてより嫌っていたものを同じ角度から見ることで同様に嫌いだと判断することは、あまりにも容易で単純な見方だという考えが私の頭の隅に浮かんできた。
私は学ぶ気持ちを持ってこのプログラムに応募し(後から聞いた情報だが、研修にも関わらず応募の倍率は有名私立大学程度はあったそうだ)、このプログラムのために時間を割いて自ら参加をしている。
それなのに、一部のグループワークのためにやる気を削いで、今の自分と半年後の自分を照らし合わせた時、綺麗な程合同な型に当てはめさせてしまってはたまったものではないという気持ちが強くなってきた。
先日行われた講座でも、事前学習で示された問いに対する考えについての議論の場としてグループワークが用意されていたのだが、私はそれを「グループワーク」として見るのではなく、あくまで学習の場であり、何かを学び得る場であると定義して参加するようにした。
そうしたことで、これまで感じていた胃の中の重りのようなものは少し軽くなり、多少なりとも息をしやすくなったと感じることができた。

何かを成し遂げたかの如く偉そうに色々と連ねたが、物事を俯瞰的かつ多角的に見るということは、我々が思っている程難しいものではなく、またそこから得られるものも、往々にして有益となるものだということを伝えたいだけだ。

人間は往々にして普遍的な生き物である。
私は苦手なものを基準としてそう定義してきたわけだが、子供の頃食べれなかった野菜を、大人になった今では口角を上げながら食べている。
ちょっとした変化を伴うことで、人はいい方向を見つめながら進むことができるようになるのではないか。

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