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日曜日の昼下がりには拙いユーモアを

日曜日の商店街を歩いていると、色々な会話が聞こえてくる。
日曜日という事実だけでさえ重荷を背負っているような感覚に陥るのだが、今年の夏は日差しが強いだの、どこかの服屋がまだ閉店セールをやってるだの、そういった類がほとんどだった。
稀にあそこのパン屋のクロワッサンは本物だという耳よりな会話を聞くことがあるが、そんな素敵な会話は3ヵ月に一度程度であって、そもそも何をもって本物なのかをまず説明してほしいところだ。

そんなドーナツのように穴が開いたような会話を聞いていると、私は何か物足りないような気がしてならない。
なぜ「今年の夏は日差しが強い」なんて言葉が、目の前の人間を楽しませる会話になると思ったのだろうか。
正直なところ、そんなものは過ごしていれば分かる。
あなただけがこの暑い夏を経験しているわけではない。
出張で火星に単身赴任している夫に宛てた妻からの手紙の書き出しならまだ分かる。
「今年の(地球の)夏は日差しが強いです。あなたはいかがお過ごしでしょうか。そもそも火星に季節というものは…」
実にロマンティックだ。
これほど素敵な手紙を宇宙空間を通して火星に送ってしまった頃には、太陽が興味を持ってもっと地球に近づいてしまうではないか。
そんなことに気が付かない妻は、火照った頬が近づいた太陽のせいか、それともときめきのせいかの区別がつかなくなってしまうではないか。

しかし会話が催されている場所は地球であり、我々は日曜日の昼下がりを生きている。
そんな空虚な言葉で会話を紡ぎ、もしその日の夜にその相手が急遽火星へ出張することになったらどうする。
「あぁ、なぜ夏の日差しのことなんて口にしてしまったのだろうか。」
そう思ってももう遅い。
大遅小遅また明日である。
ではどんな内容で会話を紡げばいいのだろうか。
愛情や感謝が王道だろう。
「いつも楽しい時間をありがとう」
「この前くれたワイン、とても美味しかったよ」
まあ悪くはない。
しかし、どことなくチープな感じがしてしまう。
もちろんこれだけでも素敵な会話としては成り立っているのだが、より会話を色づけるような何かが足りない。

そう、「ユーモア」だ。
取るに足らない言葉に少しばかりのユーモアが振りかけられた時、そこから言葉は色づき始め、会話は踊り始める。
耳にした人を特別な気分にさせ、普段は摂ることのできない養分を、そんなユーモアから得ることができると私は思っている。
例えば、ワインを貰ったことに対しての感謝を述べる言葉に私なりのユーモアをつけてみよう。
「この前くれたワイン、とても美味しかったよ。
昨日飲んでみたんだけどさ、僕の口の中がまるで、
『仕事が上手くいかず、私生活もなかなかパッとしない32歳の男が、本屋で何となく手に取った雑誌の末尾に掲載されている葡萄畑の求人を見て、この際どうなってもいいや、この葡萄畑で働こう、と心に決め、数々の困難を乗り越えながらも初めて自分の手で育てた葡萄を手にした時、食べずともその味は舌を伝って私の喉を潤してくれるような気がした。』
みたいな味がしたよ。」

正直なところこれはやり過ぎにも程があるが、「やり過ぎにも程がある程長く綴ってしまう」ユーモアがある、とも片づけられるため、言う人、聞く人の数だけユーモアは存在するのだ。

ユーモアとは、聞けども言えども決して悪い気持ちにはならないものである。
私たちの拙い日曜日の昼下がりに必要なのは、サザエさんを見ることによる絶望ではなく、月曜日を少しでも明るいものにする拙いユーモアではないだろうか。



私は先日、買った本が既に家にあり、それを何度か読んだことがある本だった、ということがあった。
それを友人に伝えたとき、彼はこう言った。
「きっとそれ病名があるよ。」
私はこう答えた。
「ダブルブッキングだね、きっと」
私としては割とクリティカルな発言だと思ったが、彼のセンス・オブ・ユーモアには刺さるような代物ではなかったようだ。

ユーモアは難しい。

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