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言葉は少ないほうがいい

「思うことは何でも話して、信頼を築いていこうね!」

喫茶店で近くに座っていたカップルははちきれんばかりの笑顔を浮かべていた。
どちらも感じの良さそうな顔つきで、きっと最近付き合い始めたのだろう。
見たところ同じ大学に通う1~2年生で、英語の必修授業かなんかで知り合っていわゆる意気投合でもしたのだと私の馴れ初め予報は呟く。

そんな夢見る若者たちを横目に私はいつものように''夢見る''モーニングのトーストを口に運ぶわけだが、どうも最初に聞こえてきた会話が喉に引っかかってしまう。
恐らく彼らの言葉の裏側には、お互いに少しでも気になることがあれば、包み隠さず、溜め込むことのないように伝えていこうね、といった意味合いが込められているのだろう。
鼻を噛むときにティッシュ2枚いく人なんだね、だとか、ところ構わず指の骨を鳴らす人なんだね、とか。
これは極論だが、お互いのこれからに関わるようなことは積極的に伝えようということだ。

しかしだ、思うことを何でも話せば、信頼は築かれるものなのだろうか。
否。大否小否である。
言葉とは力であり、輝きであり、そして儚いものだ。
かの有名なジブリ映画のワンシーンで出てくる飛行石のように、初めは魅力的な輝きを放ち、力強く自らを解こうと広がるが、その光は見る見るうちに小さくなってしまう。
言葉もそうだ。
何かと託けて言葉を多用し続けていると、やがてその言葉の力は(主にここでは言葉を放つ張本人を背景的な目的語としている)少しずつ弱まっていってしまう。
それが後に人間関係の形成に影響をもたらし、適切な言葉を必要とする適切な場面でその効力が発揮されなくなってしまうのではないだろうか。

とどのつまり、言葉というものは然るべきタイミングで然るべきセンテンスに含まれ、そして人間の内なる蒸留の施しを受けて、といった前提のもとに形作られるものなのだと私は強く信じている。

言葉は少ない方がいい。

その裏側には、少なく発される言葉には自ずから力を持って放たれる、という意味合いも秘めている。
何も会話を減らすべきだ、と主張しているのではない。
ピアニストがクレッシェンドやスタッカートを意識しながら譜面を追うように、肖像画家が顔の特徴を際立たせるために配色に気を配るように、私たちも「言葉」に一つ抑揚を、色彩を施すことを考えてみてはどうだろうか。

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